年末年始日記

毎年終業日にはフロアの大掃除がある。今年は終業日までもつれ込んだ仕事のある人が少なかったせいか、大掃除にも余裕があり、個人的にも達成感のある仕事納めだったのだけど、気づくと親指の爪に亀裂が入っており、最終的にはそれを気にかけながら帰宅する羽目になった。

終業日の翌日は良い天気だった。地下鉄の改札を出て地上へと続く階段を見上げ、ああ正月だなと思ったのを覚えている。実際は年末だったわけだけど、あのように空が青く、真昼から夕暮れのような光に満ちている空気を正月のようだと感じるのは一体なぜなのだろうか。
確率的に、正月は晴れやすいという統計があることは幾度か天気予報で聴いたことがある。しかしそれは東京で見る天気予報だったし、考えてみると広島の祖父母が亡くなり、「正月に広島へ行く」というイベントが行われなくなって以降、私は関東以外で正月を過ごしたことがないのだった(母方の祖父母は関東に住んでいる)。
沖縄や北海道でも正月はこのように晴れてることが多いのだろうか。アメリカやイギリスは、中国やアフリカはどうだろう。
きっとその国ごとに「年末年始らしい天気」というものがあるのだろうし、ならば次の正月には関東の正月らしさ以外のものも見てみたいな、と思ったりした。

大晦日から実家へ帰り、元旦には甥っ子を連れて義妹が来てくれた。上の弟は昨年末からアメリカに転勤になっており、正月明けには2人もアメリカに発つため、その前に会える最後の機会になる。
2人が訪れることは前もってわかっていたのに、父が居間を散らかし放題にしていたため、31日は着いてすぐに片付けと床の雑巾がけに借り出された。しかし念入りに雑巾がけをしたかいがあった、と思えるほどに甥っ子ははげしくハイハイをしていて、本当に子どもというのは日に日に、著しく成長するものなのだなと感じた。
義妹に着物を着せて写真を撮りたい、という親のリクエストがあったため、その間、小一時間ほど甥っ子と2人で遊んでいたのだけど、私の手につかまって、ちょっと歩いてみせたりする様子に、あんよが上手という言葉をいうチャンスはここだな!と胸が熱くなったりもした。あとはひたすら缶におもちゃをいれ、さかさまにしてそれらを開放し、再び缶におもちゃをしまう遊びを2人でした。

2人が帰った後、母親がマックのポテトが食べたい、クーポンがあるから、と言い出しポテトを買って帰ったのだけど、いざ大皿にあけたところで、父親がそれを自分のテーブルに運んだのには笑ってしまった。
まだ私が学生だった頃、最寄駅にはじめて焼肉屋(牛鉄とか牛角とかそういうやつ)ができたときに、家族揃って食べに行ったことがあった。そのとき「ユッケ」(当時はメニューにあった)を注文したところ、一口食べて気に入ったのか父親がそれをそっと自分の前に移動させたということがあった。
父親にはそのような、気に入った食べ物を独占する癖がある。
それがいまだに変わっていないということに笑いつつ、父と自分は本当に食の好みが似ているなとも思った。
ポテトは半分奪い返したが、結局父はLサイズ1つくらいは一人で食べきった。胃袋が丈夫なようで何よりだと思う。

2日には下の弟に送ってもらって妹とセールに行った。道がとても混雑していて、車の中ではノロウィルスの話から脱線してずっと吐き気の話をしていて、スタンドバイミーで吐いたのは何のパイだったかという話で笑いまくった。
妹とは福袋を買いたいねと話していたのだけど、もう夕方だったからか跡形もなく、結局デパートの地下で菓子の福袋をかって2人で半分こしてそのまま帰宅した。

久しぶりに実家に連泊したのだけど、慣れない布団と慣れない風呂(私が実家を出た後にリフォームしたため)を使うことに少々疲れていたので、自宅に帰るとなんだかほっとした。
折れた爪はまだ伸びていない。
きっと数年後には「爪の折れていた正月」として思い出すのだろう正月だった。