マンガは哲学する/永井均

マンガは哲学する (講談社プラスアルファ文庫)

マンガは哲学する (講談社プラスアルファ文庫)

面白い本だった。読みはじめたらとまらなくて、明け方まで読んで、翌日中には読み終えてしまった。
漫画好きな人への哲学書というよりは、哲学好きな人への漫画考察書という意味合いの方が強いので、この本で紹介される哲学的な問題の糸口については、あまり深く掘り下げられない。あくまでも入り口が示されるだけなのだけど、これはきちんと永井均さんの哲学書になっている。とにかく私はほんと、この人の哲学が好きみたいだ。
でも、この本を読むには、紹介されている漫画を読んでからの方が良いと思います。基本的にネタばれは避けようとしているみたいだけど、やはりどうしてもネタばれしてしまう部分はあるし、予備知識もなく「漫画を読んで感じたこと」が自分の中にあった方が、自分の考えとの比較もできて面白い読書になると思う。参考までに、紹介作品の一覧をメモしておきます。(下に畳んでおく)
個人的にはかなり好みど真ん中の作品ばかりでうれしかったし、紹介作品が好みにあっている人には、ぜひこの本もおすすめしたいです。

哲学とは、要するに、なぜだか最初から少し哲学的だった人が、本来のまともな人のいる場所へ―哲学をすることによって―帰ろうとする運動なのだが、小さな隔たりをうめようとするその運動こそが、おうおうにして深淵をつくりだしてしまうのである。p106

気になったところ

高橋葉介さんの「壜の中」を紹介しているところで、面白い部分があった。

この作品は、文学的に解読すれば、少年がそれまで壜の中にこもっていた少女の自我を解放し、少女がこれまでの殻を破って新しい自分になっていくお話として読むこともできる。「壜」を文学的シンボルと見るような、その種の文学的な読みが私はきらいである。p78

なるほど、文学的な読みというのはそういうことをいうのか、と思った。ここでのそれは隠喩や暗喩にちかいものだと思うけれど、それは、基本的には読み手次第のものであって、「これは〜の意味である」断言することには違和感がある。国語のテストでよくやらされるような気もするけど、それは共通事項じゃないんだよね、共通することのほうがずっと不思議。ただ、隠喩的な読みならこの本の随所にみられるし、後半の「鉄コン筋クリート」の読みなんて、ちょっと感傷的ですらある(でもそれがいい)。もしかして永井均さんは「文学的」に何かうらみでもあるのかしらとちょっと思う。いや、隠喩や暗喩だけが「文学的」ということじゃないんだろうけれど。
諸星大二郎さんの「夢みる機械」を扱っている箇所も面白い。

ここでロボット的というのは、決まりきったルーティーン・ワークをこなしていく人のことを指しているのではなく、もっと広く、社会的に意味のあることをしようとする人を意味している。そして、そういうロボット派の人々のおかげで、この社会は維持されているのだ。感謝感激というほかはない。p112

さすがだなー、と思ってつい笑ってしまった。「夢みる機械」を読んだことがある人には、ここでの永井均さんの考察が面白く感じられるんじゃないだろうか。
火の鳥 異形編」に触れているところも興味深い。私が私に殺されるという運命を背負った人の人生とは、どこからどこまでなのだろうか? 高校生の私が、ある老人を殺し、そしてそのある老人とは、後にタイムマシンを発明し、高校時代の自分に会いにきたのだとしたら? 私と私が出会う時、なぜ「いま」が私なのだろう? こういう疑問について、考えることを「非現実的だ」という人もたくさんいると思うけど、現実的って何だろう。もちろんそれを善悪でわけるなんてことはないんだけど「自分会議」のところではこう書かれている。

私はなぜ、九年後や、二十三年後や、三十三年後の自分のために、いまの自分の利益や幸福を犠牲にしなければならないのだろうか。
(略)
道徳や法律というのは、要するに、他人の利害を将来の自分の利害に換算するシステムなのではあるまいか。p154〜155

この本の最後に紹介されるのは「スターダストメモリーズ」の第六話「セス・アイボリーの21日」だ。このお話には、セス・アイボリーのクローンが登場するのだけど、ある理由で彼女の「生まれた意味」はあらかじめ定義されている。

つまり、われわれの人生は二代目セス・アイボリーのように充実してはいない。そして、この充実の欠如こそが、われわれにとって、意味ある生の成立条件なのである。p248

生まれた意味も、生きる意味もなく、存在しているということ。その満たされなさこそが、実は「意味のある生の成立条件なのである」ということだろうか。
満たされないということは、実はとても幸せであるという感覚に近いと思う。しかし人は役割や定義を求めるものでもある(ような気がする)。あらかじめ決められているものではなく、それは自分で選ぶものだ、というかもしれない。しかしそこに違いはあるのだろうか? 神の視点をおく、ということは、そこに違いを認めないということだ。
うーん人間って不思議だな。

文庫版あとがきによると、永井均さんは、この本を書いた後、『転校生とブラック・ジャック』『倫理とは何か』『私・今・そして神』を書き、この三冊を「私自身にとって、やっと果たせた新たな飛躍の記念すべき三部作、というべきもの」と書いている。
確かに、私がこの本の至る所に巻かれている種のようなものになんとなくその先を想像できたのは『私・今・そして神』を読んでいたというところが大きいと思う。なので早速『転校生とブラック・ジャック』『倫理とは何か』も、読まなきゃなぁと思っています。その前に、と思っているのもいくつかあるんだけど。

『マンガは哲学する』にて紹介されている作品一覧

知らないで読みたい人もいるかもしれないので、一応畳みます。

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 ひぐらしのなく頃に「罪滅し編」

13日の祭囃し編発売に備えて、解を、というか今「皆殺し編」をやっているのですが、そういえば「罪滅し編」の感想をメモするのを忘れていた。
まず、なんでこんなに進めるのが遅いのかというと、私が使っているMacではやれないため、妹のPCを間借りしているからなのです。でも、きっと長い年月かけてやってきた人には、私がひぐらしをやってた約半年は、きっともったいないくらい短いんだろうな、と、思います。

で、「罪滅し編」はというと、「目明し編」もすごかったけど、これも、もう傑作だと思う。目の前の謎と全体の謎とに夢中になる感じは相変わらず「面白い」んだけど、特に「解」までくると、それぞれのシナリオを読んできてるだけに、それぞれのキャラクターに感情移入してしまって、つい泣けてしまう。あの最初の、絵柄に違和感感じてた頃が懐かしいっていうか、富竹さんにすら違和感なく(失礼)登場するたびに「わーい、ひさしぶり」って感じで。
しかも今回は冒頭の「部活」がうまい具合に効いてて、やられたなぁ。そして何より「これで終わりじゃない」ってのが。
なぜこの感想を書き忘れていたことに気付いたかというと、上に書いた「マンガは哲学する」の感想を書いていたら、「火の鳥 異形編」で描かれていたテーマは、ひぐらしのそれと重なるような気がしたからだ。でもまだこっちの物語は閉じてない。だからこそ「祭囃し編」が楽しみな反面、それでほんとに終わりなのかと思ったら、少しさみしいような気分にもなる。

そして、それをリアルタイムでやるために、頑張って秋葉原行って、頑張って予約しなきゃ、と思ったんだけど、土地カンないので困った。ここくらいしか思い付かなかったんだけど、よく読んだら予約受付してないとのこと。池袋店…? 秋葉原よりは近いけどなぁ。池袋に行くか、発売日に秋葉原行ってみるか、迷い中。よく秋葉原行く弟に「どこいけば予約できると思う?」って聞いたら知らんといわれた。