やることリストと視覚と錯覚

毎朝、仕事前に「今日やることのリスト」をつくるのは、やることを忘れないためというよりは、やったことを消すため、という意味合いのがおおきい。忘れないためのものは他にもいろいろあるけど、それには大まかな目的のほうが書いてあって、やることリストにはほんとに瑣末な、たとえば送らなくてはならないメールのあて先を、羅列してあったりする。
なんでそんなことをするかといえば、こなした量を目で確認したいからだよなと思う。真っ黒だったリストが赤線でうまっていくのがうれしい。

そういえば、この前、たまたまつけたテレビで、インタビューされてた人が(お医者さんだった)「これがスケジュール帳で」と、真っ黒に塗りつぶされたノートを開いてみせていた。つまり、やることリストをノートに書き付けて、おわったものは黒く塗れというわけらしい。
「この頃はかなり燃えてましたね」と、真っ黒なページを指していう。ボールペンでぐりぐり塗りつぶされているので、テレビのこちらがわからも、紙がよれよれになってるのがわかる。

それを見ていて、ああ、そうか、やることリストを消して行くのには、頭の中で、とめおかれてる事項を消去していく,ちょっと大げさだけど「儀式」の役割もあるのだなと思った。見えないものを見える形に描き出し、消す。その作業を目で確認することで、頭からも消える。
それはたとえば、オレンジ色の砂糖水がオレンジジュースに感じられるとか、そういう錯覚とおなじようなものなのかもしれない。「視覚」からのインプットって、他の経路より直接繋がる感じがして面白い。意識より先にある感じがする。

 バス走る/佐原ミズ

バス走る。 (BUNCH COMICS)

バス走る。 (BUNCH COMICS)

バス停をテーマにしたコミック・バンチでの連作と、他社で発表したものをあつめた短編集。装丁もこってるし紙も上等。カラーページも多い豪華な本です。
佐原ミズさんの描くお話には、基本的に悪い人がでてこない。お話もやさしいものがおおい。
この本に収録されてる短編作品では、ストーリーよりも、その空気感が印象に残るものが多くて、たとえば、この主人公はこの先としをとってもきっと、何度も繰り返しこの光景を反芻するんだろうなっていう、特別な瞬間ばかりが集められている。
特に良かったのは男の子と女の子の視点が交互に描かれる「ナナイロセカイ」の2編。どちらも、お互いに思いを寄せあっているのに言い出せない二人が、相手に告白するまでを描いている。目が、あったりあわなかったり。そらしたり追い掛けたりを眺めているだけで、なんかもう甘酸っぱさで胸がいっぱいになりました。

 欲望バス(文庫版)/望月花梨

だいぶ前にでてたものみたいだけど、文庫版を見つけたのでつい買ってしまった。

欲望バス (白泉社文庫)

欲望バス (白泉社文庫)

望月花梨さんの描く物語(の多く)に共通しているテーマは、デビュー作のタイトルにもある《境界》だと私は思う。デビュー作の『境界』は、小学生の女の子が、親友に彼氏ができて、どんどん大人びていくことに戸惑うお話だった。そこで「境界」という言葉があらわしているのは、「子供でもない/大人でもない」場所/時間のことなのだけど、それと同時に、きっと「自分と他人との間にある境界」でもあったのだと思う。
幼い頃は、自分が他人ではないということを、よくわかっていなかった。
女の子であって、男の子ではないというのがどういうことなのか、いまいちピンとこなかった。
学校での時間と一人でいるときの自分が、一続きでいられた不思議。
そしてそのふたつが分け隔てられるときの摩擦や葛藤を、望月花梨さんはまるでいまそこにあることのように、切実に描いている。

…私は思春期の女の子が気持ち悪い。
些細なことですぐつるむし怒るし泣くし
とても不安定で無気味な生き物に見えます。
「コナコナチョウチョウ」

自分が「私」であるということを知るときというのは、他人もまた「私」であることを知るということなのかもしれない。そして、そのきっかけは、たとえばこの物語の主人公がチロに出会うように、「他人」との間にある境界を、こえられない、そのもどかしさを知ることにあるんじゃないだろうか。
そうだあれはこんな感じだった、と、そんなことを思いながら読む。