「光ってみえるもの、あれは」/川上弘美

光ってみえるもの、あれは

光ってみえるもの、あれは

なんだか久しぶりに、川上さんの文章が読みたくなったので、読む。
この作品で描かれるのは、例えば「蛇を踏む」とか「いとしい」で描かれた川上弘美の世界とはちょっと違う、現実のどこかにいそうな、江戸翠という16歳の少年の世界だ。
前半では割合と普遍的*1なエピソードが多く描かれ、後半でがらっと雰囲気が変わる。全編が江戸少年の成長記のような物語。
読みながら、彼と視線を重ねているうちに、私はだんだんと江戸少年を知っているような気分になってくる。というよりむしろ自分なのじゃないかという気分になってくる。つまり、私にとっては感情移入しにくい(感情移入というよりは異界を覗き込んでいる気分になるものが多い)川上さんの作品の中で、この江戸少年は珍しく感情移入させてくれる主人公なのだ。

うろうろ生きて。で、それで?

という問いに囚われ、彼女の「ふうん」という一言に幾種類ものニュアンスを読み取り、「好き」ということを上手く説明できない。母親に「今日はどうだった?」と訊かれて「ふつうだった」と答える。ふつうじゃないことなんてあまりなくて、ふつうじゃないことが起こった時には話さない。だからといって、別に親を大切にしていないわけではない。自分の親を思い浮かべて、ふと、饒舌な母親をもつと、こういう感覚をもったりするのかもしれないなと思ったりする。
そんな彼の日常は夏休み前のある日を境にして変化しはじめる。「で、それで?」という疑問に結論がでた訳ではないだろうけれど、それはきっと、自分の輪郭を把握する過程でもあったのだろうな、と思う。ラストの翠君の決断には少々驚いたけれど、そんなふうに、いちどいろんなものから自分を切り離すような体験をしてみたいな、と憧れる気持ちにもなった。

一瞬前はあんたに確かだったのに、今はもうすでに嘘っぽい感慨にしか思えなくなっている。
なんてうつろいやすいものなんだろう。思いっていうものは。(p395)

きっと私もそう思うのだろうけれど、それでも、一瞬でも「感じたということ」は残っていくだろう。
と、そんな風に江戸翠君に感情移入してしまいながらも、彼の彼女である平山さんにも共感できる部分がたくさんあった。彼女が「夜になると鮭は…」という詩*2を読んで、翠に感想を求めるところなど、ああいうこと、きっと男の子はストレスに感じるのだろうなと思う。それでも、恋人に対して「自分と同じことを感じて欲しい」という無言の強要っていうのを、知らず知らずのうちにやってしまいがちだ。特に十代の頃は。なんて、自分の経験を思い返して恥ずかしくなった。
全体的に、浮き世離れした人物が多いこの物語の中で、彼女の存在はとてもリアルだったような気がする。そのほかの登場人物も、とても魅力的な人が多くて、中でも北川先生は、私も学生時代にこんな先生にであってみたかったなと思った。川上弘美さんはかつて理科の教師をなさっていて、その当時の話で「先生はいつもほかのことを考えているでしょう」と言われたというのを読んだことがあるのだけど、もしかしたら、この、北川先生みたいな先生だったのではないか、と思ったりした。

*1:物語としては普遍的、という意味。

*2:レイモンド・カーヴァー