「なぜ自殺をしてはいけないのか」

「なぜ自殺してはいけないのか」を、「なぜ人を殺してはいけないのか」でも使える説明“以外”で説明してください。(例:「家族・友人が悲しむ」「社会が成立しなくなる」などは、ナシとします)
説明できない・いけない理由はない・ケースバイケース、という類の回答はご遠慮ください。
http://www.hatena.ne.jp/1128784395

人力検索はてなにあった、michiakiさんによる興味深い質問。回答者の方の答えにも目を通したのですが、私にとっては前の「なぜ人を殺してはいけないか」という質問よりも、難しいものでした。何故かというと、そもそも、自殺をしてはいけない、というのはほんとうなんだろうか? というところから始まってしまうからです。(いや、自分にそういう願望があるわけではないですけど、いろんなケースが想定できすぎる。)
殺人と自殺の違いについては、29番と51番の回答者cosmo_sophyさんがおっしゃっているように

故に、殺人禁忌が『相互契約的倫理(私も殺さないから、あなたも殺してはならない)』である一方で、自殺禁忌は『自己信念的倫理(私は、他者との人間関係・社会的義務・生命の尊厳など種々の理由により生きなければならないから自殺はしてはならない。)』に過ぎないと言えます。(51番)

ということだと思います。ただ、これは社会の中に暮らしている人にしか当てはまらないのですが、例えば私が自殺を容認するような言葉を使うことにひどくためらいがあるのは、やはり共同体(例えば家族)の中で成長し、なにかの「役割」を負いながら生きるうちに上記のような禁忌が暗黙の了解であることを学んできたからなのかもしれない、と思いました。
ともかく、自殺することで、それらの役割や義務、可能性などを放棄してしまうということは単純に言えば「降参する」ということになるような気がします。つまり複数人数で支えている(例えば大きな盆に入った水のような)ものから突然手を離してしまう、というようなイメージ。25番の回答者の方に近いですけど、いきなり降参されてしまうと周囲の人には影響を与えずにはいられないでしょう。しかし25番の方がおっしゃるように、これを「ずるい」こととすると、じゃあ皆一斉に手を離せば良いじゃないか、ということになりそうなんですが、でもそれを続けていたいと思っている人もいる訳ですから(というかそちらのほうが大多数で)誰かが手を離す、ということは、大多数の意見からすれば、それは「ずるい」というよりも盆の水が元に戻らなくなるような「事件」の原因ともなりうるわけです。
そのような事件をおこしてはいけないよ、というのが道徳や倫理によって代弁される「自殺をしてはいけない理由」なんじゃないでしょうか。cosmo_sophyさんの29番の回答にある、

『恋人・家族・配偶者に死んで欲しくない。私は孤独感に襲われ、寂しさに打ちひしがれ、人生に苦悩するから』というのが、自殺禁忌の原型でしょう。

という言葉がこれにあたると思います。それでは、そのような存在を想定できない人はどうすればいいんだろう? 例えば「社会」に暮らしていない(無人島に1人で暮らしてるとか)人に対しては?
そんなことをぐるぐる考えていて、「私が、見ず知らずの絶望者に対面したとき、その自殺を食い止めるために発することの出来る言葉はあるのか」ということに対し、思い付いたのはただ、プライドに訴えかけるしかないんじゃないかということでした。幾人かの回答者の方がおっしゃっているように、自殺をする精神状態というのは確かにある種の「病」であると思います。ただ、それは自ら克服できる可能性のある「病」である場合が多く、その病に対してあなたは自ら降参してしまうのか、私はまだしない、ということしか、言えないんじゃないか、と思った。

うー難しい。けど、考え事するのは好きなのでつい手をだしてしまう。