私が私であるということ

永井均さんの「私・今・そして神」の中で、ライプニッツ原理についての項にこんな文があった。

私とは現に世界がそこから開けている唯一の原点のことである。だから、何が経験されようと、経験されてしまったなら、それを経験するのは必ず私なのだ。(p106)

という部分を読み、私は「そうだ、その通り!」と思ったのだけど、続く文章を読んで、首を傾げることになった。

私が分裂するという、よくある思考実験の場合だと、別れた二つは内容的にはほとんど同じ人物なので、どちらが私になるかは、ただ偶然が(言いかえればただ神の意志が)決める。問題なのは、それまでの私の記憶をちゃんと受け継いでいるほうがなぜか私ではなく、受け継いでいないほうがなぜか私である、という場合だ。ライプニッツ原理によれば、そういうことが起こりうることになる。(p106)

この一文はずっと気になっていて、折に触れ思い出していたのだけど、今のところの実感としては、やはり、中身が連続していなかったとしても「今、ここ」で思考している私こそが私であり、それまでの記憶を受け継がなかった私に私がなってしまったとしたら、それこそが私であり、もう一方の、「それまでの私の記憶を受け継いでいるが、今、ここの私とは別の思考、視点を持つ私」は「私’」であるだろう、と考えている。
先日「今ここにいるいくつかのじぶん」id:ichinics:20060111:p3という文を書いた時に、「過去の私と今の私は明らかに他人だ」と書いたのだけど、それはちょうどそんな感じで、今の私が経験してきたことと、過去の私が経験してきたことは、重なってはいるけれど、その後があるかないかという点において異なっている。(もちろん、時間軸的にあり得ないという前提はここでは考えてない)その時間的な隔たりの中で経験されたことは、過去の私にとっては「ない」ことであり、現在の私からみたら「ある」ことだからだ。
しかし、現在の私にとっても、過去の私と「出会う」ということは無かったことであり、巡り会った時点で二人は別々の人格になる、と思う。しかし現在よりも先の未来の私はそれを知っているのかもしれない。それは「あった」ことなのかもしれない。すると、この「現在」の私は、未来の私ともやはり他人なのだろう。今はまだそれを知らないだけで。
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じゃあ、例えば私が分裂して、私の私足りうる部分、つまり「思考」する私が、全然別の肉体の中に入ってしまった時、それを他者に説明できるだろうか?
これを逆のパターンで考えると、同じく永井均さんの「翔太と猫のインサイトの物語」に出てきた話で、こんなのがあった。

「顔もかたちも性格も記憶も変化した」好きな人を愛することができるか?

この本の感想(id:ichinics:20050524:p1)で、私は「自分自身にとってはどんな要素が変化しようと自分は自分でしか無いけれど、他者に対して抱く感情というものはその人の持つなんらかの「要素」に裏付けられているということ」と書いていた。がーん。
つまり、やはり分裂して現れた「私」は、それまでとの連続性を失った時点で他者に認識されていた私ではないということなんだろうか。
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ちょっと話を戻す。私は「私とは現に世界がそこから開けている唯一の原点のことである」ということを、漠然と「その通り」と考えているのだけど、それはつまり私以外の「私」(私から見ると他者)もまた、その「唯一の原点」であるということだ。
でも、それって「仮定」なんじゃないだろうか。
私が私足り得ているのは、「今、ここ」に意識があり、思考しているからだ(と仮に断言する)。でも、その私の意識、及び思考が、「唯一の原点」であるからには、他者には知覚され得ないということでもある。だから「仮定」によって、人は他者の意識に近付くのだろう。
前に私は「その「私」を含むいくつもの点を結ぶのものとして、人は言語を生み出したんじゃないだろうか」と書いたけど、その感じは今でも薄れていない。(前に(id:ichinics:20051202:p2)もほとんど同じようなことを書いた。)
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ここで再び「例えば私が分裂して、私の私足りうる部分、つまり「思考」する私(視点といってもいい)のみが、全然別の肉体の中に入ってしまった時、それを他者に説明できるだろうか?」という疑問に戻る。
たぶん、できないだろうなと思う。
私はちっとも論理的になれないので、ここで「だからといって悲しむ必要はない」と思う。
思考する「私」は既に、それまでの記憶をもう一人の「私’」に譲ってしまっているのだ。ということは、認知してもらうべき他者も私には存在しないということ。他者に認められようとやっきになるのは、記憶を伴う「私’」の方なのだ。
そして、そう思うということは、私は私ではない「私’」にも「意識」があるのだろうと仮定していることになります。
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あたりまえで当然って感じがすることを長々ともったいつけて書いてるなぁ、と自分でも思うのですが、そんで、何が言いたいのかというと、

機械の意識の有無を判定する方法について。
将来、「心を持つ人工知能を造った」、あるいは「人間の意識をコンピュータに転移することに成功した」と主張する人が現れたとします。そのコンピュータを前にしたとき、どのような方法によれば意識の有無を判定できるでしょうか?
※知性の有無の判定ではありません。また、そのコンピュータは「人並み」の応答はできるものとします。
http://www.hatena.ne.jp/1138120442

またしてもmichiakiさんの質問なのですが、この質問に対する回答を、上のような流れで考えてたんでした。でも回答になんなかった。
「心」や「意識」というのは、つまり「唯一の原点」である自分自身にしか感じられないこと、だと私は思うので(それはイコール他者に「ない」ということではなく)、仮に「彼(そのコンピュータ)」を目の前にしても、確かめる方法は、ない。それは意識の主体である「彼」のみが知っていることなので。
ただ、その「主張する人」が嘘ついてたという仮定を無視すれば、彼が信じている限りはあるとも言える(つまり「ない」ことも証明できない)。無茶なようだけど、人は生き物以外のものに「意識」がないという前提のもとに生活してきたので、受け入れるのが難しく感じるだけだと思う。
でも、物語的な解決をするなら、上の質問をそのまんまその「彼」に投げかけてみればいいんじゃないかなと思います。
「それはもしかして僕のことですか?」とか言われて、私が「ああ、ひどいこと言っちゃった」と思ったらもう「ある」んじゃないかなと思う。例えば、車がエンストしたときに「機嫌が悪い」と感じたりすることは、車に意識があると感じていることであるとも言えるように。
ロマンチック過ぎるような気もするけど。