結論はでません

先日書いたものの補足、というか続きを懲りずに考えている。
前に、野矢茂樹さんの「哲学の謎」を読んだ時(id:ichinics:20051202)に、気になっている点、としてメモしておいた部分が
「もう一回ゼロから世界が始まって、全く同じ条件でスタートしたら、そこにやっぱり私はいるんだろうか」
ということだった。これは、具体的にいうとこの本の「記憶と過去」「行為と意志」および「自由」という章を読んでごっちゃにして感じたことで、すごくわかりやすく書いてあるからこそ、ぐうの音もでない感じだった。

君が腕を上げるとき、君は君自身の力で君の腕を上げなければならない。つまり、それは君の意志が動力となって生じた動きでなければならない。(略)
さらに、その意志もまた君自身の力で引き起こしたものでなければならない。つまり、「腕を上げよう」という意志も、再び君の意志が動力となって生じた心の動きでなければならない。
「意志することの能動性を言うために、「意志することを意志する」と言わなければいけないってわけ?」
行為の能動性を意志に求めるかぎり、そうなる。そして、意志の意志を出してもそこで終わりにならないことは明らかだ。二番目の意志の能動性を言うために君は三番目の意志を持ち出さねばならず、以下、無限に続く。(略)
「動力としての意志」は行為と非行為の相違を説明してくれない。p163ー164

この腕をあげる、という例はとても解りやすかった。確かに、日常生活における殆どの行為は意志よりも先に動いているような気がする。でも、もうちょっと因果関係のはっきりしているような行為、例えば「泣く」という行為にしても、「悲しい→泣く」ではなくて「泣く」という行為のあとに「悲しいから」という理由がやってくる気がする。今、私がふと思い出す何かは、「思い出そう」という意志のもとに起こることではない。「明日は買い物に行こう」と思って行く、ということは一見意志のように見えるけども、何故買い物に行こうと思ったのか→最近寒くなって上着が欲しいから→でもこれまでにも寒い日はあった→今日きれいなコート着てる人をみかけたからかも→同じようなコートを着てる人はほかにもいたけど、何故わざわざその人をみたんだろう?→何故って、そんなのたまたまだよ!
すごくおおざっぱなたとえだけど、こんな具合に、ほとんど永遠に理由を探していったら最後は「無意識」とか「偶然」なんて言葉にいきついちゃう気がする。そう考えてみると、「私の意志」なんてものは実はどこにもなくて、全ては単なる反応に過ぎないんじゃないかと思えてくる。そして、さらに「全ての条件を同じくして世界が再スタートする」という状況が仮にあったとしたら、やっぱり私は同じものを選択したような気分の中で、最終的にはここにたどり着き、こうして、この文章を書いていたりするようにも感じる。うーん、何か嫌だ。だって、それを認めるということは、「人間もまた、自然のシナリオに従うしかない物の塊だからだ。(p192)」という言葉に同意することになってしまう。

あまりに当たり前のことなのだが、現実はつねに一通りだ。起こったことは起こったとおりに起こった。それに対して、「そうでないこともありえた」ということは、非現実の可能性の世界を開こうとすることだ。p190

そう、でもやはり「そうでないこともありえた」と思わずにいられない。
この問題について「哲学の謎」の中では「虚構」に視線を転じることで締めていて、私はそれがとても気に入ったんだけど、今日はもうちょっと。
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意志、というものが実はあるようなないようなものである、というのは何となくわかった。それを認めるとすると、むしろ私は、意識することなく、過去を意味付けすることで補完してるんじゃないかという気がする。
でも、例えば「トゥルーマン・ショウ」という映画があったけど、あの映画の中で、トゥルーマンは架空の世界の中に生きていた。しかし、そこに生きている間は、彼にとってそこは「現実」だったはずだ。
ええと、で、何が言いたいかというと、つまり「過去」は幾らでも上書きされる可能性がある、ということだ。自然のシナリオに従うしかないように見えても、今のところはタイムマシンなんてのは存在しないし「時間は流れている」からこそ、「今ここ」は一つしかない。いや、タイムマシンがあったとしても、「今、ここ」にその要素(タイムマシンがやってきた/やってきている)が加わったら、それはその時点で新しい流れのはじまりなんじゃないだろうか。だから、これまで積み重なってきた過去から、どんな結論が導き出されるかについては、計算できないんじゃないだろうか。自然のシナリオで語れることは「今、ここ」で起こることの少し手前までなんじゃないのかな? でも手前ってどこだろう?
例えば、私がここでAとBのどちらを選ぶかというのは、これまでの過去を判断材料にして計算するしかない。けど、ここで計算と相反する結果が出たとしたら、それがまた一つの情報として加わる。なんてことはないんだろうか。
そしてそれは、「そうでないこともありえた」という非現実も、「今、ここ」には影響しているからなんじゃないか、と「今、ここ」の私は思う。
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なんだか滅茶苦茶で曖昧だ。というわけでこれからやっと「無限論の教室」を読みます。

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