20世紀少年最終回について

ここは普段リンク元にはあんまり偏りがない日記なのですが、昨日は「20世紀少年」でアクセスしてくる方がとても多く、なんだろ、ネタばれ探してるのかな、と思って自分もいろいろ見てみたのですが。
あの最終回のあとに見開きページがあって、「2007年新春に最終章登場」と書かれていた、その下の文「(※早口言葉です三回言ってみましょう)」を、つまり「これはネタであって、ほんとは最終章なんてないよ!」という意味に解釈している方もわりと多いみたい。(参考【地球儀の螺旋/『20世紀少年』、早口言葉の謎】http://d.hatena.ne.jp/./tragedy/20060424/p4
うーん。言われてみれば確かにそうも読めるけど、昨日は全然そんなこと思わなかったなぁ。普通に定番早口言葉の「新春シャンソンショー」に似てるからかなぁと思っていた。まあ意味があるとしても、せいぜい「随分先の話で申し訳ないですね」というエクスキューズというか照れというか、そんなものだと思っていた。

かといってあの(暫定)最終回を面白かった!とは言えない。

18号の感想(id:ichinics:20060405:p2)にも書いたけど、正直かなり前から、20世紀少年は行き先に不安を滲ませていて、正直これで読者の納得いく大団円迎えられるのかなぁ、想像できない、と感じてはいた。そしてその原因は、大人になったケンヂの魅力のなさに、あるんじゃないかと、私は思っていた。
もう既刊にもエピソードあるので触れると、あの「歌」が、そもそも「どうなんだろう?」と最初に首を傾げたところだった。CD付き買ったけどね。それで先生はライブもやった*1んだけど。そうやってリアルにアウトプットしすぎたことで、ケンヂ像が曖昧になっていくような気がしてた。
もちろんこれは、いち読者の感想に過ぎないのですけど、でもやっぱり、物語の最初はケンヂにあった視点が、最終的にケンヂに戻ることを、たぶん多くの読者が期待していたと思うのです。あれだけ散らばった伏線を束ねるには、それしかないような気もした。でも、今のところの最終回まで、ケンヂは正体不明の、しかめっ面の、おじさんでしかない。内面が見えない。この大人ケンヂの人物像は、たぶんボブ・ディランを意識しているのだと思うのですが、ディランの内面が、その態度と歌にあるように、紙面に音を鳴らすには、やはりそこに「リアルの音」ではなくて、漫画としての音(もちろん音以外の物語でも良いのだけど)がなければいけないと思うのです。それをどんな風に描くのか、が、私が20世紀少年に期待していたことだった。そして、ケンヂの曲が物語の中で重要な位置を占め過ぎたせいで、そのハードルがどんどん高くなっていくような気がしてた。
個人的な勘ぐりでは、ライブやったりとか、現実の人物と重ねてしまったりとかで、ケンヂ像がつかみにくくなってしまった、というのが今のところの「20世紀少年」ではないのかなと思います。
で、クールダウンに約一年を費やそうと。その間「PLUTO」がんばるよと、そういうことだと勝手に理解しています。とりあえずいまのところは。
なので私は「最終章」に期待しています。このままで終わるなんて! 

*1:id:ichinics:20050628:p2にちらっと書いているので、ライブは約一年前かな