『これがニーチェだ』を読む/その3(の2)

昨日引用した箇所についてもうちょっと。かなり間抜けな話になります。

世の中のためになることをもって善とし、世の中に害を与えることをもって悪とする、これまでの倫理学説は、すでにひとつの倒錯なのではないか。

これ、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いだとなんでそんなに混乱するかなぁ、と思うのですけど(まあ当然といえば当然なんだけど)、この前提としての善悪を、多くの人が軽く(もしくは重くても)越えられるものが「恋愛」だと思った。
例えば、恋人(仮にAさん)が「別れたい」と言ってきたとする。別れたいって言うくらいだから、Aさんにとっては、別れた方が「幸せ」である、と思われる。でも、別れ話をふられた方は「別れたくない」、という場合とか。
でも、「好きな人の幸せを願う」ことが世の中的(倫理的でも道徳的でも)には「善」とされている(と感じる)。家族や友人、または「恋人」という関係上にある相手ならば、相手の幸せを喜び、願うことは簡単なのに、なんで恋愛感情のバランスがとれないと、前提が覆される(ことが多い/簡単な)のか。
それは、本来「自分」は「自分」の利益を一番に考えてしまう生き物だからなんじゃないかなーと、思います。だから、善悪関係なしに、こうしたい、という希望があるのは、純度の高い感情なんじゃないかなぁ、とか。そして、そこをも越えて、でもやはり自分といるよりも、Aさんの幸せはあちらにあると思うし、自分はそれを願う、と、感じることもあるだろう。どちらにしても、そこに嘘が混じっていないか、心からその答えを選べるかってとこが、ニーチェにとっての「誠実さ」なのかな、とか思います。……ということにしたいけど、やっぱり違うだろうな。「Aさんの幸せはあちらにあると思うし」という前提のある時点でニーチェ的には「嘘」かもしれない。「〜した方がいいから」というフィルター越しではなくて、「これがしたい」が切実なものであるならば「しろ」という方が、近いのかも。ただ、そこらへんには抵抗を感じるとこが、私に根付いてる倫理観なのかもなぁ。
うーん、やはり恋愛で考えるとどうもなんか座りが悪いというか、相手の気持ちについては想像の範囲を出ないところで結局利己的になってしまうし、そもそも何ををまじめくさって書いてるんだ、って気分なんだけど。でも、つまり大多数の人に迷惑をかけちゃいけませんよってとこで倫理は出来上がっていて、その倫理が先にあるわけじゃありませんっていう順序の話、なはず。
倫理の話はちょっと考えるのやめとこう。煮詰まり過ぎて違うものになってしまってる気がする。