タイミング

人生のほとんどは、タイミングでできてると思う、とか言ってみる。
でもほんと、そうなんじゃないかなぁ、と思う。それは決定論、ってのに近いのかもしれないけど、決定しててもしてなくても、同じことだろうって思う。この前読んだ、イーガンの「百光年ダイアリー」の感じに近いかな。
ともかく、タイミングでできている、と思ったのは、目の前を通り過ぎていく時には気付けなくても、あとから振り返ると「あそこが分岐点だったのか」と思うことが多いから、だ。
もちろん、目の前を通り過ぎていく時に気付けたとしても、別の分岐に行けたわけではないだろう。この道にくることは、あらかじめ決められていたのかもしれないから。でも、逃したタイミングに気付くのは、いつもそれが過ぎ去ってからで、だからこそ、なぜ行動しなかったんだろう/行動しなかったということは逃しても良かったということでしょ/ちがうよー/ちがわない、とか考えはじめてしまうのが、いや、というか疲れる。そしてこのところ、そういうのが乱立している。もうやめちゃいたいなぁ!
でもいつかはこの分岐で良かった、と思うときもくると思うし、そういう方向に気持ちをもってくこともできるんだけど(だからやっぱり「後悔」をしてるわけじゃないと思うんだけど)ここのとこの積み重ねはちょっと手に負えない。

つまるところ、いつの日にか私は、ただひたすら肯定する者となりたいのだ!/『悦ばしき知識』二六七

ニーチェの文章はなんで「!」が多いのかなぁ、ってのはちょっと気になるとこだけど、この一文はとてもいい、と思いました。もうぜんぶ肯定したい。でもそれって、あの「アトモスフィア」での「赦し」と同じこと? だったりして。

へこみすぎるのはいけない気がするので、早急に気分転換しなきゃ、と思うけど、とりあえず今日のところはへこんでいる。へこんでることにびっくりもしてる。懲りないなぁ。