第二章 ニーチェの誕生と『悲劇の誕生』のソクラテス像
この章では、ニーチェの生い立ちから、ニーチェの哲学空間がはじまるまで、が解説されている。短い章なので、気になった部分のみ抜き書きしてみる。
「お互いが理解しあうためには、同一の言葉を使うだけではまだ十分ではない。同じ種類の内的体験に対して同一の言葉を使うのでもなければならない、結局は各人が共通の体験を持たねばならない。」p66
強調部分は原文にて傍点をふってある箇所です。以下の引用も同様。
この辺りの流れには、ニーチェの「言葉」への恨みのようなものが透けて見えるような気もするし、それはむしろ、そういう感じ取られ方こそを忌避していたということなのではないかとも思える。迂闊を承知で書いてしまうと、それはなんというか、他者への「期待」のようなものでもあったんじゃないかと。でもそれはきっと、私の感覚を映しているからこそ、そう見えるものなのかもしれない。永井均さんによる
「ニーチェは、自分があこがれる「高貴さ」それ自体が、自分が言う意味で原理的に「隠喩」でしかありえないことに、少々鈍感であるように私には思われる。
という指摘がいいです。うん、たしかに。ニーチェについての文章を読んでいると、あこがれが先にたって、そこにたどり着く道筋を考え続けているような印象を受ける。
そして「ルサンチマン」について
最終章については感想書きたいけど、そのほかの章については、まだ理解できてないところが多すぎるので、当初の目的であった(もう今は目的でないけど)「ルサンチマン」について思ったことだけメモ。
ルサンチマンについて主に書かれているのは第三章。最初に「怨恨感情」と訳されている。
「生の上昇運動を、出来のよさを、力を、美を、自己肯定を、この地上において示すあらゆるものに対して否を言いうるためには、天才となったルサンチマン本能が一つの別の世界をここで捏造しなければならなかった。この別の世界から見れば、あの生の肯定は悪と、非難すべきもの自体と、見なされることになる。」p88/『反キリスト』二四
いきなりすごいです。ちょっと強烈すぎて、まずなぜ「否を言いうる」必要があるのかがわからないのだけど、その動機としては以下に引用する「ぶどうに手が届かない」というものに重ねていいのだろうか?
ぶどうに手の届かなかった狐が「あれは酸っぱいぶどうだ」と言ったとしても、それはすでにある価値空間の内部で対象の価値を引き下げているにすぎない。
そこではまだ価値の転倒は起こっていない。価値の転倒が起こるのは「ぶどうを食べない人生こそがよい人生である」と――ひとに言いふらすだけではなく――自分の内部で実感したときである。p95
さらに、これをこの本では
「『目には目を、歯には歯を』と言われている。しかし私は言う。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら左の頬も傾けなさい」
という聖書の言葉に重ねている。
なるほど、と腑に落ちたのだけど、ちょっと疑問がのこる。まず最初の引用の範囲では「価値空間の内部で対象の価値を引き下げているにすぎない」のままに感じるけれど、次の引用で「自分の内部で実感したとき」とまで言われていることが、つまり「捏造」なのだろう。うん。そこまではなんとなくわかる。
例えば、自分の言葉でなら、先日書いた「でもいつかはこの分岐で良かった、と思うときもくると思うし、そういう方向に気持ちをもってくこともできるんだけど」というのがルサンチマン的な発想なのだろう。しかし、それは価値転倒を「時間」にゆだねているということ、のような気もする。つまり「時間」を経て「内部で実感」までたどり着くということ?
うーん、でもその由来が「怨恨感情」である限りは、内部での実感は訪れないのではないだろうか? もともとの目的が、その渇望(ぶどう手に入れたい)からの解放、であるように感じられるのはあまりにも即物的というか俗っぽいかもしれないけれど、価値を転倒させようという「意志」に捕われている限りは、その価値と向き合っていることから逃れられないのではないかしら、と思う。
そういうことじゃないのかもしれないけど、その辺りに疑問が残りました。だからこそ、第二章にでてきた
最小の幸福でも最大の幸福でも、幸福を幸福たらしめるものはいつもただ一つ、それは忘れることができるということ、あるいはもっと学者っぽく表現するなら、幸福が続くかぎり非歴史的に感じる能力である。p68/『反時代的考察』第二編一
という一文の方が、ニーチェの目指すところには近かったのではないかと思ったり、する。ただ、本当に「忘却(内部での実感とも置き換えられる)」してしまったら、それはもう怨恨からも解放されてるはずだから、また価値転倒は起こせる、といえるんじゃないだろうか。絶対的価値というものがないならば。あるのか。あるのかも。そこは保留。
というわけで、ルサンチマンでは私はすくわれないなぁと思ったけども(そういう話じゃないか)、しかしここがあるからこそ、最終章の跳躍が沁みてくるんだと思います。また、ルサンチマンのキリスト教との重ね方はとても興味深く、なるほどと思うところがたくさんありました。