嘘のないきもちってどんなの?

まだそれか、という感じですけどもうちょっと。

世の中のためになることをもって善とし、世の中に害を与えることをもって悪とする、これまでの倫理学説は、すでにひとつの倒錯なのではないか。
『これがニーチェだ』p29

三回目の引用ですけど、もうちょっと自分に引き寄せて考えてみたい。
まず「善であることをしよう」と思ってなされた時点で、それはすでに善ではなく「嘘」になってしまうんだ、という気持ち。
キリスト教の教えは、めちゃめちゃ大雑把にいえば「人は生まれながらにして罪を負っているのだから、天国にいきたければ善をなせ」ということだと受け取っています。
私は親戚に牧師さんもいるし、小さい頃は教会にも通っていたし、まあクリスチャン(かなりゆるいけど)の家庭に育ったといっても過言ではないと思う。ただ、幼い頃から、信仰(や「善」とされている行為)の見返りとしての「天国」という方程式には、ずーーーっと違和感があって、それって全然美しくない、なんて生意気にも思っていた。本当にそれを信じているのなら、見返りが保証されていなくても、信じているという気持ちだけがあればいい、それがほんとなんじゃないか、なんて思っていたわけです。
だから私にとって、「これがニーチェだ」を読むことは、ニーチェの言葉のなかに、私のその違和感を見ようとすることだった、と思う。
例えばちょっと前に書いた「でも、その言葉の正しさは、「すべき」という言葉に従った時点で、正しさが損なわれてはいないだろうか?(id:ichinics:20060428:p2)」という疑問を重ねて読んだりもしていた。そしてその答えについては、まだ何ともいえないんですけど。
でもですね。そのもともとの「善」を善ととらえておかなければならない、ということはないんじゃないかな、と最近は思うんです。それはやっぱり、自分以外の誰かによる価値観、つまり想像でしかないんじゃないかなって思う。行動からの見返り、をある程度計算して選択するということ。その経験の積み重ねが「善悪」ということに置き換えられるのかな、と。「善」とされてることのほうが、受け入れられるっぽい、とわかったら、「受け入れられたい」人はそちらを選ぶだろう、って、なんだかみもふたもないけど。「受け入れられたい」というところには、嘘がないはずじゃない?

と、やっぱりまだフィルターが多すぎて混乱しているんですが、ただ、私は自分が大事だと思う気持ち、それは正しくも善でもないけど、しっかりとした輪郭を持っていてほしいと思うそれ、に近付きたいし裏切りたくない。そして、他人にもそれに代わるものがある(だろう)ということだけが、私にとっての前提としての善というかルールだと思う。
それ以外については見返り(自分がいい気持ちになりたい、とかそういうことも含め)を期待して行動をすることも赦しちゃうし、それが結果として善悪に振り分けられることは覚悟している、と思う。その「行動」は「嘘」かもしれないけど、その見返りが欲しい、という気持ちには、嘘がないはずだ、と思います。要再考。