ザ・ワールド・イズ・マイン/新井英樹

新井英樹が描く「世界」の物語。
この作品は1997年から2001年にかけてヤングサンデーにて連載された。つまり20世紀から21世紀にかけて連載されたわけだけれど、20世紀においても21世紀においても、この『ザ・ワールド・イズ・マイン』と比肩しうる作品生まれないのではないかと思う。作品としての価値とかそういうことではない。単純に、比べるものがなく/その必要もないような気がするのだ。
なにしろ題材は「世界」だ。そして、そのあまりにも大きく、混沌とした題材を、新井英樹は描ききっている。私はこの作品を連載当時誌上で読んでいたのだけれど、今改めて読み返してみると、この作品が週刊連載されていた、ということに驚かされるし、その構成を見れば、連載当初から綿密なプロットが組まれていたことは明かであり、その演出力、的確な構成力にはただ圧倒される。そして新井英樹という漫画家を、恐いとも思う。
大げさに思えるかもしれない。私も、再読する前は、もう少し、コンパクトに作品を俯瞰できるのではないかと思っていた。しかし、そういうことではないのだ。そこに明確なメッセージのようなものを見ようと期待すること自体が、間違っているのだろう。
もちろん、ここには確かに「宮本から君へ」*1から続く新井英樹の「価値観」がある。それは怒りに基づき、多少屈折してもいるし、しつこい。そして、それこそが新井英樹作品の魅力でもある。しかしこの物語の中では、作者のそれと同じように、たくさんの登場人物、つまり価値観の持ち主が存在する。――その多様な価値観を一つの物語の中で平等に描くということ。それこそが、新井英樹の目指したところであり、この作品の特筆すべき点なのではないだろうか。
彼らは、それぞれの物語の主体であり、先の見えない断面に、同時に生きている。現実において「休憩」している登場人物がいないように、この作品では登場人物の全てが同時に動き続けている。
もちろん、それを「物語」として生かすのは、新井英樹という観察者の存在である。彼の操るカメラは、クローズアップもズームアウトも的確に明確にこなす。そこでは個人の物語も、世界の物語も、同じ地平の上にある。それは決して「コンパクト」に語れることなんかではないのだ。
しかし物語は彼らを描くためだけのものではない。彼らの命は、不可侵な/説明のつかない「力」によって等しく「価値のない」ものとして扱われる。
その状況を作り出し、描くことで、世界が社会の集まりで構成され、社会の集まりが人と人とのつながりによって構成され、そこにルールが、あるいは宗教が生まれ、つまりそれらは人を「縛る」ものであったということを再認識させる。そうやって価値観を崩壊させ、その先に何を見るのかを問いかける。
もしこの物語にテーマのようなものがあるとしたら、そういうことなんじゃないかと思う。

もし私が、この物語の中にいたとしたら、間違いなく町中で声もなく殺される一市民だろう。もしくはただの傍観者かもしれない。
しかし、この物語を読む間くらいは、数ある登場人物の中の誰かに、自分を投影したくなる。せっかく読み返したので、何回かに分けて、何人かの登場人物それぞれについて書いてみようかと思う。(続き→http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20010101/p1

*1:感想 → id:ichinics:20060108:p2