「〈私〉という演算」を読みはじめる

毎日眠る部屋や、歩く道は、見知った景色に囲まれているので、特に意識もせずに通り過ぎてしまうことが多いけれど、例えば「あの交差点にあるポストは今日もあったか」と問われれば、なんとなく見たような気になって、うんと答えるだろう。
でも私はそれを見ていない。ただ記憶の中にあるポストの像を重ねあわせて、今日の記憶に上書きしているだけで、もしかしたら全ての見知った景色は、もうないのかもしれない。私が「ある」と感じられるのは、いまここにいて見て触れることのできる景色についてだけで、感覚の届かない場所にあるものを思う時、それは全て記憶に重ねあわせた像でしかなくて、その形は他人には伝えることができない。
習慣になっている行動をしているとき、見知った景色のはずなのに、全く未知ものに感じられたりするのはゲシュタルト崩壊というやつなのかもしれないけれど、それよりも、習慣であるということは、つまり既に知っている要素を認識する手間を省くことなのかもしれないと思って、何だかちょっと変な気持ちになった。だとすると、いわゆる記憶喪失ってのはキャッシュを削除するようなものなのかもしれない。
例えば私に17歳だった頃があるかと問われれば、あったと答えるだろうし写真だって身近な人の記憶でだってそれが証明できるような気はするのだけど、私自身の認識からはそれはもう遠く、感じることができないもののになってしまっている。でも時折、匂いや音や光の加減に、そのころの感覚を思い起こすことはあって、そういうのは記憶なのか乗算なのか、どっちなんだろうなとかそんなことを、今日はじめて入った喫茶店の中で考えていた。
その店は、私が字を読めるようになった頃からそこにあったし、駅前の風景を思い浮かべる時にはその看板もきちんと景色の中に見えているのだけど、店内に足を踏み入れたことはなかった。なんで今日に限って入ってみようと思ったのか、たぶん、足の疲れ具合とかお茶を飲みたくなったタイミングとか、そんな理由でしかないのだけど、想像していた店内が今目に見えている店内と重なるようで重ならない感じとか、窓の外に見える景色がよく見知ったものであるのにも関わらず、どこかよそよそしく見える感じなんかが、不思議と気持ち良くて、嬉しくなった。
そして買ったばかりの保坂和志さんの「〈私〉という演算」を読みはじめて、読みながら上のようなことを考えていたのだけど、保坂さんの本を読んでいるときについ考え事をしてしまうのは、きっとそこにある言葉と会話しているような気分になるからで、でもそれで私の読んでいることが、保坂さんの書こうとしていることと重なっているような気はあまりしなくて、だからもっと注意深く読もうとすると、余計に頭の中が文章からはなれてしまうのだった。でもとても楽しくて、いつの間にか半分以上読んでいた。続きは台湾で読もうと思う。明日から台湾に行きます。