最初に、わたしはわたしであってほかの人ではないのだ、ということに気付いたのは、いつのことだっただろうか。
残念ながら、私はその瞬間を明確には覚えていないのだけど、ただ、たしかに幼い頃の自分は、もっと曖昧で、いろんなものと混じりあっていた。
お風呂に入ればゼラチンのように溶け、冷蔵庫から出した麦茶を飲めば体の内側を落ちていく冷たさが空気にまで広がるようだった。母親に手を添えられて書く文字の、意味はわからなくても次にどう動くのかはわかるような気がしたし、友達と遊んでいてもつい、そのことを忘れてダンゴ虫を集めるのに夢中になったりした。
そんなふうに、世界に寄りかかって境目もおぼろげな日々を過ごしていた間は、案外長かったような気がする。
しかしやがて、思っていることは、自然にわかってもらえるものではなく、外に出そうとしなくては伝わらないのだということを知り、漠然と、わたしとわたし以外は何かが違うということを悟ったものの、それが実感に至ったのはもう少し後のことだったはずだ。
記憶がザルな私は、それがいつかをちゃんと思い出すことはできない。でもたぶん、それはわかりたいと思うことだった。
たとえば友達が、何を思っているのか、考えているのか、それを知りたいという気持ちでいてもたってもいられなくなり、しかしそれが確実なものとして手に入らないのだということを痛感したとき。そして、わたしのこの背に腹は代えられなさは、わたしだけのものなのだということを知ったときの、あの体を切り離されたようなひんやりとした感じは、しかし同時に心強いものでもあったはずだ。
つまり。この気持ちがわたしだけのものである、ということは、それが自分だけのものではない、ということを示しているのかもしれない。みんな自動的に生きて行動しているわけではなくて、だから、こんなふうにうまくいかなかったりわからなかったり、わからなくて困ったりしているんじゃないのか。
あーそっか、と思う。あの感じはなんとなく、世界が裏返しになるような瞬間だった。
まあ、今でもそういうの時々忘れるんですけどね。でも、たぶん、何かが腑に落ちる瞬間ていうのは、けして普遍的なことではなく、何かひとつのことに躓いて、それをじっと見てしまうときのような気がする。
ああ、手のひらにはしわがあるのだなあ、おや、となりのひとのしわとはかたちが違うじゃないですか、とか、そんなふうに。