前回のコピーロボット話に頂いた反応を読んで、懲りずにもう少しだけ、書いてみようと思います。(それにしてもこのコピーロボット話では、思いがけずいろんな方の考えを読めてとても嬉しいです)
ululunさんの図解(ぼくらの鼻は、いつだって赤い - 煩悩是道場より)を見てやっと、ああ、と頭が整理されたように感じたのですが、
鼻押者の記憶を引き継ぐ、ということは、「鼻押者がコピーロボットの鼻を押す瞬間」の記憶まで引き継いでいるわけなので、コピーロボットは「コピーロボット」という概念をもって覚醒するって考えるほうが自然ですね。そう考えてみると、pbhさんが書かれている「恐さ」がよくわかる。
コピーロボットは、コピーされた直後「自分こそコピーロボットの鼻を押したオリジナルである」と認識している筈です。ところが“それ”は使用者以外の第三者の振る舞いや、恐らくは自分の鼻が赤く、もう一人の自分そっくりな奴の鼻が赤くない事などを手がかりに、自分こそコピーであると気付かされてしまう。うわあ。この不安や恐怖はちょっとP.K.ディック的悪夢ですよ。
コピーロボットは本物の夢を見るか? - 幸せの鐘が鳴り響き僕はただ悲しいふりをする
ほんとだよ…! 想像するととてもこわい。でもすごく面白いです。誰かこの小説書いてくれないかなぁ…。オリジナルと争うことになって、でもオリジナルの思考パターンがわかるからこその葛藤があって、みたいな話が読みたい。
それから、好きな発想だなあと思ったのがululunさんの書かれていたこの箇所でした。
過去のエントリには私が潜んでいて、今の私がそのエントリを読んだ瞬間こそまさに「コピーロボットのおでこに触れた瞬間」とは言えないでしょうか。
過去の私と今の私を分け隔てているのは「時間」です。
コピーロボットと私を隔てているのは「場所」です。
二つの違いはそうしたベクトル程度のものだとは考えられないでしょうか。
ぼくらの鼻は、いつだって赤い - 煩悩是道場
話がコピーロボットからずれてしまいそうなのだけど、自分が以前書いた文にこんなのがあった。
- 季節も時間もなにもかもが、今ここの瞬間にあるということが、私が私であるゆえんでもあるのだけど、それと同時に過去の私は今の私とは明らかに他人だ。それなのに、私はその他人である私の気持ちを、知っている。共感することはできなくても、それを理解することができる。(id:ichinics:20060111:p3)
これ書いてから2年近く経ってるんですが、私はこれを書いた「私」を、今でも「理解できる」と思う。
それじゃ、コピーロボットはどうなんだろうなぁ、と考えてみると、それはむしろ、タイムマシンに乗って未来の自分(自分の見ていない記憶を持った者として再び出会うわけだから)が会いにくるようなものなのかもしれません。
ひとつの時間軸が、コピーロボットの鼻を押すことで分かれ、おでこをくっつけ再び鼻を押すことで一つの時間軸に回収される。
しかし、オリジナルは、コピーが過ごしていた時間を見ることはできるけれど、例えば視界の隅をかすめた花の色や、好きな子のちょっとした一言に対する反応や、ぼんやりとながめた看板の文字、とか、そういうことからコピーが何を思ったのかを、正確に知ることはできない。
これはhasenkaさんが書かれている
この周りが見えて自分を感じている感覚はその別人格には宿らないだろう。宿るのか?
「自分と全く同じ記憶を持つものは自分足り得るか - hasenkaのメモ」
という問いのように、場や時間がずれれば、感覚は重ならないだろう、と私は思う。
ただ、ほとんど確信に近い直感を持って、想像することはできるんじゃないだろうか。
そのような関係って、すごく不思議だ。だからこそ私は「コピーロボットとの会話」に惹かれるのだと思う。