いまここ

眠っているあいだに見た夢のはなし、を目が覚めてから話しだすと、だいたい支離滅裂になってしまうし、目が覚めていくにつれ、それはすくってもすくってもこぼれ落ちる砂のように輪郭をとどめる事なく、いつしか目を凝らしても見えないくらい、遠くなってしまう。それでも、汗で湿ったてのひらにはいくらかの砂粒が残り、印象というか、情景というか、夢が楽しかったとか怖かったとか、そういう感覚というのがほんとうに「あった」ことだというのを教えてくれる。思いだしてみれば不思議な、たとえば昔見た炊飯ジャーから妹が飛びでてくる夢とか、あれ笑うとこだったのか怖がるとこだったのか、わかんないけど夢見てたときはすごく、怒ったような気がするのがおかしかったりとか、「あった」という感触は残っているのに、その反応は普段の自分からは予想もつかないものであったりもする、その軽やかさは楽しい。
たとえば、コピーロボットの記憶を、ダウンロードした後って、こんな感じなのかなーとか、寝ぼけた頭で考えてみたりしつつ、
それは酒に酔ってるときのあの感じ、に近いところはあるけれどむしろ逆で、酒の場合は考えてから口にするまでの経路が雑になっているという方に近く、それが楽しいこともあれば、あとから思いだして、なんであんなこと言ったり、言わせてしまったりしたのかなあと、しょんぼりしたりすることだって、やっぱりある。ってまあ、それは酒を飲んでいるときだけに限らず、会話の中では、たまに、獲物を見つけたカラスが地面に着地するときみたいな、ドサッ、という感触に、ひやっとしたり、こちらにぶつかってくるものに、息をのむような瞬間があって、
それはたとえば、自分の言葉が相手に届く間でかわってしまったのかもしれない、と思うようなことで、だからこそ言葉は大切にしなければならない、でも、なんて、あーだこーだ考えてみるのも、やはり詮無いことじゃないですか、と諭す自分との自問自答の末に残る、単純な答え、というか立ち位置が、心強いよーな気分になるのは、つまり、この弱々しい視力と光の届く範囲のものが目印になるからだいじょうぶということ。
と、勢いで書いてみたはいいけれど、要するに「歴史が私になんの関係があろう」ということばをとなえてみたりするときの、ちょっと背筋をのばすような感触は、自分が常に切断面にいるということを思い出すことでもある。休まずに手を抜かずに、ハマってるひまはねーって、そういうことだとか考えてるのは最近ピーズばっかきいてるからかもしんない。