「50/50(フィフティ・フィフティ)」

監督:ジョナサン・レヴィン

昨年末に見ました。
ある日突然、「がん」であることを宣告された主人公が、病気をきっかけに身の回りの人々との関係を捉え直すというお話。
闘病生活をコミカルに描くこと自体はいいなと思うのですが、なんかどうも、キャラクターではなく制作側に「そういうものだ」としている部分があるような気がして気になった。

【以下内容に触れています】
物語のわりと序盤で、闘病生活を送る主人公を裏切ることになる彼女がいるのですが、映画を見ていて一番気になったのが、この彼女の描かれ方がちょっとかわいそうすぎるということでした。
彼女は闘病生活をサポートすることから逃げて、ちょっと浮気をしてしまうんですけど、これがバレた途端に、主人公とその友達はいきなり彼女の描いた絵を楽しそうに破壊するんですよね。そこで悲しむより楽しそうに破壊しちゃう主人公を見て、彼が彼女に対してどう思っているのかいまいちよくわからなくなった。うーん?  もしかして、彼女は喜んで闘病生活を送る主人公をサポートすべき、しなかったから描いた絵を破壊されても当然、って言いたいのかなーとも思ったけど、それは(この描き方だと)ちょっと納得は出来ない感じ。
破壊される絵も私から見たら別におかしくないんだけど、どうもその絵自体もばかにされてる感じなんだよな。うっすら「こういう絵を描いている女はこういう人種である」という前提があるみたいに感じるんだけど、文化の違いからかそこもよくわかんない。
お母さんに対してはある程度の歩み寄りを見せるのに、その元彼女に関しては言い訳する機会をあたえるでもなく、なんか、違和感の残ったまま映画が終わってしまった感じがします。

見てる間すごくおなかがすいてたのでそういうのも関係あるかもしれない。