うってつけの日

小学校の、確か4年とか5年とかの頃、よく友だちと「何歳まで生きたいか」という話をしていた。学校というのは折に触れて将来について考えさせられる場所だし、そういう時「いつ頃死ぬつもりで考えればいいんだろう」と想像するのはそれなりに自然なことだと思う。
「何歳まで生きたい?」
そう聞かれたときに答えていた年齢を私は今も覚えている。それは私の好きな数字で、実はわりともうすぐだ。

つい最近も、友人と「何歳まで生きたいか」という話になった。その時は、まだ知りたいことも見たいものもたくさんあるので、小学生のときに自分の「寿命」として意識していた年齢より、20年も長い年齢を答えた。
友人には「早すぎない?」と言われた。
そうかな? 最近読んだ本にも、人間の体はそれほど長生きできるようには作られていないと書いてあったし……なんて説明をしながら、でも自分には十分だとしても、身の回りの人となると話は別だよなと思った。
身勝手な考えだとは思うけれど、やはり好きな人は皆、自分より長生きをして欲しい。そんな風に、死にまつわる人の感情は矛盾していることが多い。

こんなことを書いているのは、最近仕事の関係で、いわゆる「死への準備教育」(人間らしい死を迎えるには…ということを子どもにどう教えるかという話)について調べていたからだ。
その流れで、長く終末期医療に携わっている先生に話を聞きに行ったりもした。
認知症の老人とうまく接するために重要なのは笑顔です、ミラーニューロンによって、人は笑顔で接してくる相手にはつい笑顔になってしまうものですから……なんて説明に頷きながら、自分もつい笑顔になってしまっていることに気づいた。認知症は病気というより加齢によって現れる症状の一種と捉えたほうが良いでしょう、実際に私の認知能力もかなり衰えてきましたし、と言われ、どう答えていいのかわからなかったけれど、そのときも先生は笑顔のままだった。

一通り仕事の話が終わったところで、「ご家族は?」と聞かれた。話の流れからいって、結婚しているのか、子どもはいるのか、ということであるのはわかったので「独り身です」と答えた。
すると先生は「世界は広いですし、未来には何があるかわかりませんよ」と言った。
午前中に降った雨が止んだばかりだった。障子越しの光が眩しくて、少し目を細める。未来か、と思った。歳を取るにつれ、まあある程度自分の未来について算段もついてくるようになったと思っていたけれど、
自分の倍以上生きている人にそう言われると、素直にそうだなあと思えるような気がした。
小学生の頃からずっと思っていた「このくらい」が変化したことも、きっと「未来は何があるかわからない」の範疇だったのだろう。
私たちは誰も、まだ死んだことがない。