緩やかな衰退

先日、下北沢に行ったら、見知っていたはずの風景が様変わりしていて驚いた。
通っている美容室があるので、街自体は久しぶりではないのだけれど、その日は時間があったので、好きな喫茶店に寄ってから行こうとかつての北口に向かったのだ。すると、曲がるはずの道沿いのビルが一つ取り壊されていて、一瞬どこにいるのかわからないくらいだった。

立ち止まって四方を確認してみると、おぼろげながらそこにあった建物の様子を思い出すことができた。
確かに古い建物だった。
いつ潰れてもおかしくないようなかばん屋さんが1階にあり、確か高校生の頃、そこで夏用のかごを買ったことがあった。使わなくなって以降は、実家の台所でスーパーのビニール袋をためておくかごとして使われていたはずだ。親はなかなか物を捨てないタイプなので、今もどこかにあるかもしれない。

しかしその実家だって、私がふとした折に思い出すのはリフォームする前の、今はなき実家なのだった。

自分はながらく、古い景色に魅力を感じてきた。
歴史的建造物とかそういうのではなく(それも素敵だけど)、生活の中にある、長く使われてきた古いものに惹かれることが多かった。
特に商業施設や飲食店が好きだ。大理石の階段と鈍い金色の滑り止めとか、大勢が手を滑らせたであろう木製の手すりの艶とか、はめ殺しの窓の重厚感、磨りガラスの、よくぞその繊細さで何十年もと褒めたたえたくなる佇まいとか、間口の小ささ、補修されたタイル、店先に置かれた植物の躍動、看板に使われているフォントの懐かしさとか、
そういった積み重ねてきた時間が今ここに詰まっているような景色が好きなのだけど、
近年、というかこのコロナ禍においては、そういった場所が急速に失われていっているのを感じる。

客足が遠のいて、というのはもちろんありつつ、高齢化した店主が店を閉める最後の一押しになっていたりとか、建物の老朽化であったりとか、理由は様々なようで、ある程度は重なっているのだと思う。
つまり、多くはコロナ前のペースでヒトが活動している状態ではキープできていたものが、ヒトの流れが減ったことで維持できなくなってしまった。
そして、「コロナ前」に戻そうというのも、もう無理があるような気がする。

戻れないということは、必ずしも悪いことではないし、いずれ、新しい規模でできることを考えることにシフトしていくように思う。

だから、失われていくものすべてを引き止めたいというのとは違うのだけど、
ただ、そこにはどう終わるのかを考える余地はあってほしいと思うし、そこに特別なものがあったということを、自分はそれをどう見ていたのかということを、誰にというわけではなくても残すことをしたいなと最近は考えている。