遠くの光

久しぶりに下北沢に行った。下北沢にはなかなか開かないことで有名な踏切があって、走り去るいくつもの車窓を眺めながら、金曜日午後20時のロマンスカーがほぼ満席であること、そのほとんどがシャツ姿の男性であることから、普段は通勤手段として使われているのだなということを知る。その明るい窓の向こう側の空気とか、
例えば家のベランダで、ビールを飲みながら夕涼みをしているとき、頭上を横切る飛行機の光とか、
自分とあちら側と、2つの空間がすれ違うということは、いつだったか飛行機の窓から眼下に広がる東京(もしくは千葉)の灯りを眺め、あの光ひとつひとつのもとに人がいるのだと思った、その視線を、幾年かごしに自分が受け取ることに近いのではないかと思った。

この間、「電車の中などで、人と人が会話しているのは聞き流せるのに、携帯電話で会話している人の声が気になるのは、人は耳で聞いているときに無意識に返答を想像しているもので、その返答が聞こえないことがストレスになるからだ(大意)」、という話を読んだ。*1 たぶん人はそうやって、知っているものと知らないものであれば、知っているものを除外し、知らないものに気をつけながら生活しているのではないかと思う。
そして、大人になるにつれ、既に知っている(似たものを知っている)と感じることが増え、いろいろなことにある程度鈍感になっていくのかなと思うのだけど、
でもそれはあちこちにおいてきたいつかの自分込みで思い出し続けているということでもあって、その懐かしさは、自分一人のものなのだということを、よく考える。それは心強いことでもあるし、でも時折、取り出してみたくて、こうして文を書いたりするのかなとか。

緑のカーペットの、日が当たっているところの黄緑、窓のサッシの暑さ、網戸の立て付けの悪さ、目を閉じたら眠っちゃうな、と感じているときのドロのような重さと気持ちのよさ。ふとした隙に翻る景色を思い起こすのは、走り去る車窓や頭上の飛行機を眺めるのに似ていると思う。

*1:http://www.usfl.com/Daily/News/10/06/0604_028.asp この話はすごく面白いと思うので続きがあればもっと知りたい