罪悪感なんて役に立たない

罪悪感の話。またか、という感じですけど、もうちょっと。
11日の文(id:ichinics:20060611:p3)へいただいた反応を読んでまず気付いたのは、私はたぶんmichiakiさんの書かれていた『「自分は世界の悲惨を知りつつ何もしない」と「自分は良い人間」は両立しない』というところから、後者をあきらめたい場合に(あきらめるもなにも、すでにそのとおりなのだけど)、厄介な「罪悪感」はどうすればいいんでしょうかって、訊きたかったんだと思いますってことだった。やっと気付いた。そこへ突っ込まないところが優しいなぁ、と思いつつ、たぶんmichiakiさんは自分の興味がなければスルーして下さると思うので、懲りずに自分にとっての罪悪感の正体を考えてみようと思う。

先日のエントリで、ぼくは、罪悪感を感じる背景には「自分は良い人である、という認識」があると言いました。あえて「認識」と書いたのは、それはあくまで本人の認識であって実際とは異なる場合もある、ということを言いたかったからです。そこをichinicsさんは、自分は良い人ではないとちゃんと知っていて、しかし良い人になりたいという夢を諦めきれない場合もあるのではないか、という。
「で、みちアキはどうするの?」:罪悪感について(まだ途中)

うん、反論してみたものの、ここであえて「認識」と書くところが、私がmichiakiさんの文章/考えを読むのが好きな理由でもあるような気がします。でも、ここで、私が「夢」と書いたのには、自分でも見えてなかった前提条件があったみたいだ。
例えば先日のエントリ(id:ichinics:20060606:p1)で書いたこれ。

例えば、私が私しかいない状況で、「この子だけでも今助けられるじゃないか!」と思うとしたら、それはその子を助けたい、という気持ちよりは、見捨てたことで罪悪感を感じ続けたくないからなのだろうと思う。あくまでも私にとって、だけど、そこはきっと永遠に覆されない偽善なんだろうなと思う。そういう意味で、私はもしかしたら、神(のようなもの)を信じているのかもしれない。

この「神(のようなもの)」というのが厄介なのですけど、「良い人になりたいという夢」というのはつまり、どこで何をして何を考えていても、見られている、という感覚に基づいているみたいです。(つまり「私しかいない状況」でも、見ている第三者があるという感覚/悪いことをしたらバチがあたる、というような)
つまり、たとえ行動しても、しなくても、罪悪感はある。助けたとすれば、それは自分の「良い人になりたいという夢」のためであるということに対して。助けなければ「夢のために努力できない」自分への失望として。でも、この例でいう「この子」にとっては、そんなことはどちらでもいいことでしょう。問題は行動があったのかどうかだけです。
ただ、ここでは「その相手は見ず知らずの相手であり、私以外に誰もいない、つまりその相手を見捨てても、見捨てなくても、誰も知らない」という状況を仮定しています。理由は先ほどの「神(のようなもの)」の視点について考えやすくするためです。(相手が知人の場合は神の視点がその相手になる、かも)

普段の私は、世界に「悲惨」があることを、忘れて生活している。『毎度毎度罪悪感を感じる(=良い人になりたいと願う自分に気づかされる)』なんていうこともなく、それなりに毎日を楽しく暮らしている。その辺りは前に書いた「自分にできることよりも、自分が実際にしてもいいと思うこと、そして実際に行動することの範囲はものすごく狭い」(id:ichinics:20060606:p1)というように理解しています。
ここで「罪悪感を感じないことに罪悪感を〜」なんて言うと、それこそ無限スパイラルみたいになってしまうし、上にリンクしたエントリで書かれているこの部分

そういう、自分への影響がゼロである「悲惨」、心が動かず従って行動にも移らない程度の「悲惨」の場合においては、人はあえて罪悪感を感じようとしなくてもいいんじゃないかなぁと思うんですが、どうでしょう?

については、その通りだと思います。だからこそ、普段の「罪悪感たち」は、全て「罪悪感すら抱かないなんて!」という1つの罪悪感(というか自分の悪さ)にまとめられているように思います。ただ、その罪悪感もまた私の場合は、表に出さない感情も「見られている」という感覚に基づいているみたいだ。
「良い人になりたいという夢」とは何なのか。それは「良い人になりたい」ということではなく、「良く見られたい」ということなんじゃないだろうか? しかし、その「神(のようなもの)」の視点は、改めて考えてみれば自分自身の客観に過ぎないような気もする。だとすると、自分で自分に「良く見られたい」とはどういうことなのか?

この先は自分の中の、あんまり触れたくない部分みたいで、なかなか考えがまとまらないのですが、例えばキリスト教でいう「良い人であれば天国にいける(大雑把ですが)」という考えと同じような構造だと思います。つまり、私はそこに、なんらかの見返りを期待している。そして、良いだろうと思われるどんなことをしても、それが純粋な気持ちではないことに、ほんの少しではあっても罪悪感を感じる、ということだろうか。罪悪感ってのとはちょっと違う。でも他に適当な言葉が思い付かない。
そして「良い人になりたいという夢」とはつまり、ほんとうに、こころから、たまたま結果的に相手にとって良かっただけの行動を、自ら望んでしてみたい、ということなのかもしれない。例えば空腹時にご飯を食べて美味しい、と思うように、自分のしたい、と思うことが、たまたま美味しかった、というような? なんなんだそのわがままは、という感じですが、そういう瞬間てのは、たぶんあるんじゃないかなと思う。
だからやっぱり、目の前にその状況が現れたとき「自分が罪悪感を感じたくないので、できる範囲でできることをする」もしくは「行動せずに罪悪感を感じる方を選ぶ」というどちらの行動をとったにせよ、それがその時望んだ行動なのだから、結果的にそれが最良の行動ではなくても、その時の判断を悔やむなんてことはしたくない/しなくていい、ということに近づけたいんだと思う。
まとめると、満足しろよ私! ってことかな。例えばシルバーシートを譲ったら老人扱いするな、と怒られた、とかいうときに、カチンときてしまったとしてもそれはまた別件と考えよう、なんて具合に。どうなんだそのたとえ。
しかし、行動ってのは望んでするものだろうか? というところを考えはじめるとまたずれていくんだけど、とりあえずこの客観(自意識ともいうみたいです)が厄介なんだなと思った。

そしてもうひとつ。一連の罪悪感についての話を書く間に、頭にあったのはIKKI7月号に掲載されていた「ぼくらの」鬼頭莫宏)での切江と田中の会話だった。この回のは全編ぐうの音も出ない感じで、何回読んでも、考え込んでしまう。

あなたは好むと好まざるとにかかわらず、もうすでに生命の犠牲の上にある。だからそのことに感謝して、その犠牲の上にある自分を有効に使いなさい。
この業と責任は生まれた時から避けることはできないから。
それでも甘えた生き方をするとか好きで生まれてきたんじゃないとか、そんなことを言うようなら自ら死ぬべき。その甘えた自分の犠牲になる生命を少しでも減らすために。
「ぼくらの」第31回「切江洋介」3より

一応誤解を招かないように補足しておくと、これはある特殊な状況下のお話で「戦っても戦わなくても死んでしまう」という状況に置かれた少年に対し、戦うことを促すためにかけられる言葉です。
この物語でのやりとりについては、もう少し考えてみたい。