箱根読書日記

今年の秋頃はとても忙しかったので、「遠くへ行きたい」欲が募ったある朝、目前に人参をぶら下げるべく旅行サイトを開いて宿を予約した。昨年の今頃も、不意に思い立って湯河原に行ったのだけど、今年は箱根に宿をとった。
遠くへ行きたいというのは、自分にとって「移動したい」と同義で、「移動したい」は概ね「移動しながら本が読みたい」だ。
だから、予約した日までは「読みたいリスト」から旅行に持っていく本を選んで注文したり、予約した旅館の口コミを見ながらこれはすごくいいか、自分には合わないかのどっちかだな、なんて予想することを楽しんで過ごした。

そして先週末、ようやくその人参を食べる日がやってきた。16時チェックインだったので昼までFGOアトランティスがきてたので…)をやってから家を出る。
コンビニでビールとつまみを買って、ロマンスカーに乗る。小田急沿線出身なのでロマンスカーには馴染みがあるけれど、実際に乗るのはいつぶりか思い出せないくらいだ。

1冊目はハン・ガンの『すべての、白いものたちの』にした。以前お勧めしてもらってすぐ買ったのだけれど、手に取った装幀の美しさが気に入り、きっと好きな本になるだろうと「いざという時に」とっておいた。
「白いもの」にまつわる掌編集で、没頭しているうちに気づいたら別の場所にいるような本だった。まるで雪のように風景を変えていく。
箱根に着くと、側溝から白い湯気が上がっていて温泉地であることを感じた。駅前のバスに乗って10分程度で宿に着く。16時頃で、もう息が白い。チェックイン時の説明が長く、これは口コミにあった通りだなと思いながら白いお猪口に入った白い生姜湯を飲んだ。


すべての、白いものたちの

すべての、白いものたちの


昨年泊まった湯河原の宿もそうなのだけど、今回の宿もいわゆるリノベーションをした宿で、館内は古く少し祖父母の家のような匂いがした。案内された部屋は広くさっぱりとしていて、ちゃぶ台と座椅子の他に、ロッキングチェアと作りつけの文机まであるのが気に入った。
その3つの拠点をぐるぐると回りながら、今度はヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』を読む。窓の外の、夕暮れと呼ぶには白すぎる空を眺めながら、いつかこんな風に、何もない、本を読むための部屋が欲しいと思った。

夕食を食べ、満腹感がおさまるまでまた本を読み(たまにFGOをやり)お腹が落ち着いてから温泉に入った。
小さな宿だからか、入ってから出るまで誰にも会うことなく広い湯船にのんびりと浸かることができたのは嬉しかった。天井から落ちてくる滴があちこちで湯の表面に波紋を広げている。水面にあたる照明のせいで、壁にその波紋が飛んでいくように映り、まるでホーンテッドマンション(にある霊が飛んでいく場面)のようだなと思ったりもした。
部屋に戻って、布団と白いシーツ、白い羽布団、白い枕、白い毛布のセットを用意しておいてから(自分でひくタイプの宿だった)、買い込んできたビールを飲みつつまた3か所を回る。

風呂が気に入ったので、「朝風呂にも入りたい」と思いながらいつもよりは少し早めに寝たが、結局朝食ギリギリに目が覚めたのでやはり早起きは向いていない。朝食に湯豆腐が出たので、これもまた白いものだなと思いながら食べた。箸で割るときに少し弾力を感じるのが楽しい。
食後、チェックアウトまで2時間程度あったので(そしてその時間にはもう風呂が閉まっていたので)ギリギリまで本を読んで宿を後にした。

帰りは下り坂なので駅まで歩くことにした。箱根に来たかったのは好きな作品の舞台だからでもあるのだけど、どの道も「これがあのキャラクターたちの地元なのだな」なんて考えながら歩けばまだ見ぬ思い出の宝庫だった。今年は紅葉が遅かったので、まだ所々に赤や黄色の葉が見えるのも美しく、深呼吸をするとどこか甘いような匂いがした。
駅に出てから、その作品に出てくる好きなキャラの実家(のモデル)と言われている旅館を見に行くためにまたバスに乗った。写真では何度も見たことがあったけれど、実際に目の当たりにすると、その実在感が増すというか、彼ならこの文字が消えかけている駐車場の案内が気になっていたりするんじゃないかとか、この階段を掃き掃除したりしていたのかなとか、ここから駅にでるときは、バスなのか自転車なのかとかあれこれ想像できてよかった。
歩いて数分のところにある庭園も気持ちがよく、せっかくなのでまた本を読もうとしたが、寒かったので早々に退散した。

年始に実家に行く際の手土産にしようと思い、和菓子屋にも寄った。日持ちのする菓子を買いつつ、視線は名物の湯もちに釘付けになる。「すべての、白いものたちの」のなかに「タルトック(白い餅)のように美しい赤ん坊」という表現が出てきたのだけれど、それはこの餅のような白さだろうか、と考える。店が混雑していたので「追加で湯もちもください」と言えずじまいだったことをこれを書いている今も少し悔やんでいる。

帰りもまたロマンスカーに乗り、そこで『自分ひとりの部屋』の続きを読み終えた。これはケンブリッジ大学の女子カレッジで行われた「女性と小説」という講演をもとに書かれた本で「女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たなければならない」ということが繰り返し語られている。これが書かれた時代と現在とでは、随分良くなったところもあればーー依然として変わらないところも多数ある。
最近身の回りで起こったいくつかの(主に仕事がらみの)理不尽な出来事と重なる部分もありつつ読んでいたので、5章のラストには思わず視界が滲んでしまった。ここはクライマックスなので抜き書きはしないけれど、続く最終章の

「性別を意識せざるを得ない状況をもたらした、すべてのひとたちの責任が問われねばなりません」
「明らかな偏向を持って書かれたものは滅びる運命にあります」

という部分を読み、今この本を読めてよかった、と思った。

窓の外は流れている。座ってじっとしているという意味では自分の家と変わりないのに、なぜ移動している時の方が本に没頭できるのか、いつも不思議に思う。
それはある意味、移動している最中が自分にとっての「自分ひとりの部屋」だからなのかもしれない。

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

とりつく島

たまに、とりつく島がない、と言われることがある。
この日記のことだ。わかるような気もするけれど、どうやったら島を作れるのかがよくわからない。
仮に私が流されていたとしたら、どのような島にとりつきたいだろう。それ以前に、私は泳ぎが得意ではないので、島を見つけるまえに沈んでしまいそうである。つまり、任意の島にとりつくためには、まず泳ぎの練習からはじめなければならない。
しかし、生まれてこのかたクロール25m以上の成果を出せたことがない私の場合、ビート版でも抱えておくのが賢明ではないか。ビート板はいい。冷たい水の中でも、ほんのり暖かく感じられるところが良い。コピーされたての書類みたいな、慎ましく儚い暖かさだ。
もう20年以上触れてすらいない気がするけれど、おそらく私の島はビート板のようなものだろう。
だだっぴろい海で、ビート板のみをたよりに浮かんでいるところを想像する。周囲にとりつく島はない。

432番

健康診断が苦手だ。
更衣室で防御力の低い館内着に着替えなくてはいけないのも嫌だし、緊張する検査が多いので単純に気後れするし、ピンク色の待合室で、揃いの館内着を着た人々とぼんやり呼ばれるのを待っていると、なんだか自分が自分でなくなっていくような気がする。432番。その番号で呼ばれるのはもちろん個人情報保護の観点から見ても正解なのだし、あちこちのドアが開いて各種番号が呼ばれ適切に処理されていくこのシステムには関心する。私はここで働いている自分のことを想像する。そちら側にたてば、432番なんて流れていく水の一滴にすぎないということをイメージする。

それでも、寝台に寝転んで腹部や胸部にゼリーを塗られ、あちこちチェックされているとーーおそらくそこで所見を述べてはいけないという決まりになっているのだろうけれどーーその辺を執拗に見ているのはなぜなのでしょうか、と声をかけたくもなる。しかしこの部屋には、それを許さない雰囲気があり、私はおとなしく寝台に横たわってゼリーを塗られているこの状態の虚無に思いを馳せる。

かつて、たまらず声をあげてしまったことがあった。バリウム検査だ。白いどろっとした液体(軽く300mlはありそう)を手渡され「飲んでください」と言われたものの、2口くらいで限界を感じた。基本は言われたらやらなきゃ…となるタイプなので頑張って5口くらい飲んだがまだ1/3も減っていない。恐れをなして「これって全部飲まなきゃだめですか」と聞いてみる。返事はない。技師はすでにガラス戸の向こうに移動してしまっていて、こちらの声は聞こえないようだ。なんとかアイコンタクトを取ろうと、コップを掲げ、首を傾げてみる。スイッチの入る音がして「早く飲んでくださいね」と声がした。おしまいだ。

だから432番は今日、朝食を食べてきてしまったという愚行を敢えて告白することで、バリウム検査を逃れた。すでに撤退戦なのである。だからせめて、今あるものだけでもこなしていかなくては…と自分を鼓舞してもなお抵抗があるのは婦人科検査だ。
やったことのある人々にはわかると思いますけれど、あの上半身と下半身を切り離したかのような設備もディストピア味があるし(とはいえ医師と顔を合わせたいわけではない)、見守り中の筋腫もあってこわいし、状況を客観的に捉えてみるだけで紙やすりのような心持ちになる。だからせめて「私は自分の意思でこの検査を受けにきたのだ」ということを思い出したいのに、
ドアが開いたり閉じたり番号が呼ばれたりする。もうずいぶん長いこと、ここにいるような気がする。番号を呼ばれた際に素早く行動したからといって、432番の覚えが良くなるわけではないとわかっている。それなのに私は、彼らの呼びかけを聞き逃さないようにと、防御力の低い館内着のままじっと、採血した右腕をおさえている。

スパンコール

たまに、どこに着ていくあてもない、なんだか派手な服が欲しくなる。
普段はどちらかといえば着心地重視な服装をしているのだけど、時折どうしても欲しくなるそのような服は、どう考えても普段着には適さない。つい先日も花柄の刺繍が施された燕尾ジャケットと黒のスパンコールのパンツを比較して「スパンコールの方が普段づかいできるかな…?」まで考え、私の普段とはなんなのか自問した。週5で通勤電車に揉まれる会社員である。黒のスパンコールパンツを履く機会はほぼない。

思えば自分で洋服を買えるようになった頃からその傾向はあった。
高校生の頃、赤白黄色青など派手な色のストライプのベルボトムを買って、一度も着なかった。
大学生の頃は60~70年代の古着にはまり、派手な服を大量に買っていたけれど、まあ大学生なのでわりと着るチャンスはあった。でもビーズ刺繍が施された白のミニワンピースはさすがに普段着には厳しかった。
自分内古着ブームが終わっても、唐突に、「着る機会はないかもしれないけど/だからこそこの服が欲しい」はやってきた。
星柄のスカート、ピンクのヘビ柄ブーツ、紫のベルベットワンピース、マキシ丈のトレンチコート(めちゃくちゃ重い)etc。一番最近買ったこのカテゴリの服は、緑のサテンサロペットだ。

着る機会なんて1生に1度しかないかもしれないような服が欲しいとき、似合うか似合わないかはほとんど問題ではない。おそらく私は、その服を着る人物を想像し、それになる、もしくはその気配を家に持ち帰るために買うのだと思う。
そう考えていて、ふと、それこそドラァグレースにおける「リアルネス」じゃないか、と思った。
洋服は着る物であると同時に、それを着る人物を表す概念なのだ。残念ながら、私にはそれを手に入れても、着こなせずに終わることがしばしばあるのだけど、
だからこそ、それを実際に着こなして「なりたいになる」クィーンたちに憧れるのだと思う。

そして私は再びショッピングサイトを開き、黒のスパンコールパンツを眺めながら「ドラァグクィーンのイベントに行くときに着れるのでは?」と閃くのでした。

『掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集』

この本を読むのは、なんだかすごく心地が良くて、少しずつ大切に読んだ。
発売してすぐに開催された、翻訳者である岸本佐知子さんと山崎まどかさんのトークショーにも行き、そこでルシア・ベルリンは、自分の体験をもとにした作品を多く書いた作家であるということを知った。
読み進めていくと、この物語に出てくるこの人は、別の短編に出てくるあの人のことだな、とわかる瞬間がある。いくつもある。
そこに描かれる、掃除婦として働く日々、幼馴染との別れ、末期ガンの妹との会話、アルコール依存症の日々、引越しの多い子ども時代と理不尽な大人たち。
それらを時系列に並べていくことに意味はないだろう。これはエッセイでもドキュメンタリーでもないことは読んでいればすぐにわかる。
すべての文章は、時系列から解き放たれ、作者の手によってあるべき形に編集されている。

けれど、語弊を恐れずに言えば、私はこのような記憶の取り出し方を、自分も知っているように感じた。それはもちろん、作者がそう思わせるのだ。記憶というのはこのように、時系列を無視して脳内に日々陰影を描き出しているものだと。

ささくれを引き抜くように、毛玉を吐き出すように、切り出された記憶を物語にして植樹するような、宙に放るような、物語の描き方を想像する。
それが実際にルシア・ベルリンのとった方法かどうかはわからないけれど、きっとそのようにして描かれたはずだ「私にはわかる」なんて言いたくなる親密さがこの本にはあって、
なるほどトークショーで繰り返し「おれたちのルシア」と語られていた感覚はこれなのかな、と思ったりもした。

そんなふうに、この本を読んでいると、彼女の記憶に、彼女の目を通して触れているような心地がする。

ただ、『さあ土曜日だ』という短編については少し書かれ方が異なっているように感じた。
ある刑務所で行われている「文章のクラス」の物語で、語り手が文章を読み、書くことの楽しさを受け入れていく様が、我がことのように嬉しい。

「文章を書くとき、よく『本当のことを書きなさい』なんて言うでしょ。でもね、ほんとは嘘を書くほうが難しいの」/p248

この短編に限って言えば、視点がルシアの1人称ではないのだけれど、だからこそ本当の部分がはっきりと浮き彫りになっているように感じた。
そこに書かれていることと、意図的に書かれていないこと。

何を書くか、書かないか。それを自分で決めることこそがプライドであり、自由なのだ。