全員主役映画/「HiGH&LOW」と「スーサイド・スクワッド」

物語よりも、キャラクターが残る「キャラ先行型映画」というのが最近の流行なのかなと漠然と思うことがあり、それを特に強く感じたのが「スーサイド・スクワッド」を見たときに「HiGH&LOW」みたいだなと思った瞬間だった。
どちらも映画の冒頭にキャラクター紹介があり、各キャラクターの回想シーンを織り交ぜながらお話が進む、という点でそう感じたのだと思う。

とはいえ「スーサイド・スクワッド」で最終的に残るキャラクターはたぶんそう多くない。ハーレイ・クインが魅力的なことについては、あの映画を見た人の多くが同意するのではないかと思うけれど、正直それ以外のキャラクターについてはジョーカー以外それほど…というのが個人的な感想でした。
けれど、ハーレイとジョーカーのそれまでやこれからという余白を想像する楽しさは映画を見た後も続いていて、それがつまり「キャラ先行型映画」ということなのではないかと思った。

自分が「HiGH&LOW」を見たのは完全にインターネットで↑の暁生カー*1の画像を見たからなのだけど、正直LDHという言葉も知らず、EXILEといえばマキダイがいたこととネスミスくらいしか知らない状態で見に行った(しかもその2人とも出ていない)ので、最初はどの人が重要人物かよくわからず、戸惑いしかなかった。
でも、チームが提示され、その中の人間関係が窺える程度に説明され、その全てに関係性という物語の匂いがする、というだけで俄然楽しくなってしまった。

私の推しチームはなんといっても鬼邪高校なんですけど、鬼邪高校だけにスポットが当たっているシーンなんてほんのわずかなんですよ。
でも「俺らは3年だからさ、あいつらに迷惑かけらんねえ」みたいなこと言いながら徒歩で討ち入りに向かおうとしている先輩を、トラックで追いかけてくる後輩、っていう図だけでもう、そこまでに至るストーリーを想像してぐっときてしまう。特に繰り返されるでこピンシークエンスなんて、物語しか感じないですよ…!(ドラマがあることを知ったのは映画を見た後でした)
さらに「HiGH&LOW」の場合は、「主役」として見れるキャラクターがとても多い。描かれるキャラクターの多くが主人公だし、誰を主人公としてみるかは観客次第という、まさに「キャラ先行型映画」であったように思う。

「HiGH&LOW」は、AKB48における「マジすか学園」の拡大版ともいえる作品だと思うのだけど、つまり、推しメンを主役に物語を見るファン目線で作られている物語だからこそ、主役になり得るキャラクターが多く配置されているんじゃないかと思います。これは「マーベル・シネマティック・ユニバース」に対応する「DCエクステンデッド・ユニバース」の悪役版として作られた「スーサイド・スクワッド」にもいえることで、つまり、推しキャラの背景を(知った状態でも知らない状態でも)脳内で補完しながら見るのがもっとも楽しい見方なのかもしれません。

とはいえ、それは一つの物語として成立しているのか、というと難しいところもある。ただ、提示された余白を楽しむという形の娯楽は確かに流行っているし*2、その流れが今後どのように進化していくのか楽しみでもあります。


「HiGH&LOW」については、スマートとは言いにくい構成にもかかわらず、めちゃくちゃ豪華な画作り&アクションで見せる圧倒的力技感も新鮮でした。
THE RED RAINも見に行きます!
www.youtube.com

*1:少女革命ウテナで鳳暁生編に登場する有名なシーン

*2:艦これ、刀剣などはその代表だと思う

君の名は。


新海誠監督の作品を初めて見たのはデビュー作の「ほしのこえ」で、確か先に制作にまつわるインタビューを見てからだったので、これを1人で作れるのかということに驚きながら見たという印象の方が強い。個人的にはその後、佐原ミズさんによって漫画化されたものがとても好きで、その後の監督の作品を熱心に追いかけていたわけではありませんでした。(ほしのこえ、のほかに長編は秒速しか見ていません)
今回は新海誠監督の新作で神木隆之介さんが声をやると聞いて、声優としての神木君が好きなこともあり楽しみにしていたのですが、こんな大ヒットになるとは想像もしていなくてちょっと驚いています。
ただ、

僕の名前を知らない人にも見てもらえる作品にしなければという気持ちが強くて。それもあって割と躊躇なく過去作で使っているモチーフとかシチュエーションも入れていきました。自分が一番得意なシチュエーションや語り口というのがあるので、それは全力で使おうと。僕のことを知らない人であれば、僕が10年前にやったことであっても今見たらフレッシュに見てもらえるんだろうと思いましたね。
映画『君の名は。』新海誠監督インタビュー! | アニメイトタイムズ

このように意識して、本当に監督の名前を知らない人にも届いている、というのはすごいことだなと思います。

公開してすぐ、TwitterのTLで、監督の作品を追いかけている人、そうじゃない人、両方から絶賛の感想が流れてきて、これは早く見に行かないと!と思い公開1週間後くらいに見に行きました。
事前情報はRADWIMPSの音楽が使われているということと、「転校生」のような入れ替わりものであるということのみ。

《以下ネタばれです。》
個人的に一番違和感を感じたのはOPでした。
メインテーマに合わせて、主人公2人の様子が次々に出てくる様子は文句なく気持ちが高揚する、もののはずなんだけど、物語の結末として重要な部分であるはずのことがここで明らかになってしまう。1クールもののアニメの終盤でOP曲代わるときの映像みたいな感じ。
ああ、ここにたどり着くまでのお話なんだな、と思ってしまって実際そのとおりなことに、ちょっと物語に入りこむ勢いをそがれてしまった気がしました。

それでも、前半のテンポよく描かれる「入れ替わり」シーンは楽しかった。
直接会うことがなくても、文字データをやりとりすること、状況を共有することで気持ちの距離が縮まっていく様子は、インターネットが当たり前にある今っぽいなと思いました。
これがインターネット以前だったら、会うことをもっと優先するような気がする。
それから、入れ替わったということが声の演技とキャラクターの動きだけではっきりとわかるのもうまいなと思った。

それから何よりもぐっときたのが東京の風景です。
自分が生活している場所と地続きにあることを想像できるような細かな背景は見ていて嬉しかった。
下の画像のメインビジュアルなんて、一時期毎週通っていた階段で、その頃のことを思い出したりもした。

と、いろいろ好きな箇所もあったのですが、全体的な印象は自分にはしっくりこなかったという感じで、その理由として大きいのはたぶん、歌詞のある音楽がたくさんかかるというところだったと思う。
これは監督自身も、音楽がかかる場面を物語のピークに持ってくるように制作した、音楽に合わせてシーンの長さも変えていった、と語っていることからも、今受ける映像の作り方なのだろうと思います。正直、ここに違和感を感じてしまったのは自分の老いなんだろうな~と思いました。
個人的には、見終わったあとに口ずさんでしまうような印象的な1曲を持って帰りたかった、という気持ちがあって、そうなる勢いがあるのはたぶんOPの曲なんだけど、ラストにかかるのはそれではない(いい曲なんだけど)ことに、ここであの曲こないのか!って思ってしまった。

物語の後半にある仕掛けについては、ハレー彗星が近づいた頃(1986年)に作られた作品のことなどを思い出して、彗星なら仕方ない、という気持ちにもなりましたし、新開監督が1986年に当時13歳だったと確認してそういった影響もあるのかなと思いました。
ただ、色々な感想を読んでいるとそこに「震災後」を重ねている人も多く、それはあまり気が進まないなと思っています。
たぶん、自分はまだ震災後をファンタジーと重ねることに抵抗があるんだなと思います。もちろん人それぞれだとは思いますが、運命を回避できるかどうか、というお話に重ねるのはしんどかった。

それから記憶についての扱いは、前半の入れ替わりの時点での忘れ具合と後半の忘れ方との違いをもっとはっきり描いてほしかったなと思いました。

一番好きだった場面は、終盤近くのすれ違う電車の窓越しに目が合うシーン。日々すれ違う大勢の人の中に、自分にとって特別な人がいるかもしれない、という、たぶんそれがこの映画のテーマでもあると思うのですが、その感覚をうまく掬い上げている場面だなと思います。
私はあの瞬間にバーン!と音楽がはじまってほしかった。
という具合に、映像とのリズム感の齟齬が気になりながら見た映画でもありました。
でもこの大ヒットの理由、みたいなことにはすごく興味があるので、見てよかったししばらく考えていたい。

「シングストリート 未来へのうた」

「はじまりのうた」のジョン・カーニー監督最新作「シング・ストリート」を、閉館間近のシネクイントで見ました。
音楽をテーマにした作品を撮り続けている監督ですが、今回の「シング・ストリート」は監督の半自伝的な作品とのこと。
これが本当にすばらしかった。

物語は、父親の失業をきっかけに主人公のコナーが転校を余儀なくされるところからはじまる。
80年代のアイルランドを舞台に、当時の社会状況や、両親の不仲、荒んだ学校と理不尽な教師……などなど、コナーの身の上にはしんどいことが次々と降りかかるのだけど、幸い彼には状況を共にやり過ごすことのできる兄妹がいて、音楽好きの兄とTVの前に陣取って音楽番組を見るのを楽しみにしたりしている。
そんなある日、コナーは学校の傍で見かけた素敵な女の子を振り向かせるために「僕のバンドのミュージックビデオに出ない?」とナンパするのだ。
ちょうど時代的にも音楽のプロモーションにミュージックビデオを制作するというのが流行り始めていた頃ということで、モデルを夢見ている彼女も興味を示してくれる。
そこでバンド仲間を集めて曲作りを始める、というところで物語が走り出す。

ここでうまいなー! と思ったのは、憧れの女の子を振り向かせたい、という熱がうまい具合に音楽に反映されていくところ。彼女の何気ない言葉から、物語を掴んで音にしていくんですよね。恋すること、何かに近づきたいと願うことは、原動力になるのだということが、鮮やかに伝わってくる。
バンド仲間も魅力たっぷりで、個人的にはもっと奴らとの絡みをみたいなとも思ったのですが、そこは最初はへたくそだった演奏がどんどんブラッシュアップされていく過程を描くことで表現されていたとも思います。特に音楽的相方になるエイモン(コリー・フェルドマンにちょっと似てた)が最高だったな。

しかし私がこの映画を見ていてたまらない気持ちになったのは、何よりお兄ちゃんとの関係についてでした。
主人公の兄はレコードをたくさん持っていて、コナーが「バンドはじめたんだけどさ~」と言えば「ロックとはリスクをとることだ!」っておすすめレコードを出してきてくれたりする。(そしてファッションごと影響を受けまくるバンドメンバー達)
つまり主人公にとっては憧れの存在なわけですね。
でも同時に、両親の不仲に振り回される、子ども同士でもある。
次々と新曲を制作する主人公のキラキラとした様子は、半ば引きこもっている兄にとっては眩しく、うらやましいものでもあったんじゃないでしょうか。

自分も弟が2人と妹がいるんですが、うちは父がかなり変わり者で、思春期の頃は衝突することも多々あり、そういうときに兄弟がいるってすごい心強いことだったんですよね。
私は長女なので、自分が好きな漫画や映画や音楽を弟や妹が好きになってくれることも多くて、そいうのを嬉しくも、誇らしくも思ったりしてた。
だからこそ、弟の何気ない一言にキレてしまう兄の言葉は痛かった。私もああいうこと、思ったことがある。

そこからは、あんなに自分を(という気分だった)慕ってくれていた弟との関係が壊れてしまうのかな、とハラハラした気持ちで見ていたのですが、
続くコナー視点の妄想のMVシーンが本当にすばらしくてね……。
あくまでもストーリー上は恋する彼女が来てくれるかどうか、ってところなんだけど、そこでのお兄ちゃんの描かれ方に、ああやっぱりコナーにとってお兄ちゃんはヒーローなんだなということが伝わってきて、胸が詰まりました。

物語はコナーの恋物語にはじまり、未来へと踏み出したところで幕を閉じる。
けれど、ラストシーンでは完全に「見送る側」に感情移入していた私にとって、
エンドロールの最初に出てくる一文が
「すべての兄弟たちに捧ぐ」
だったことが、何より最高でした。

出てくる音楽も本当にすばらしかった。
デュラン・デュランやCURE、ホール&オーツなど、彼らが影響を受ける音楽が提示され、それを吸収してオリジナルの楽曲を制作していく、というのが音でしっかり伝わってくる。
そしてどんなアイデアも、とにかくやってみよう!ってなるのがすごくよかったです。
見終わって即サントラも買い、今は毎日聞いています(特に好きなのは「Girls」です)。

余談ですが、80年代の少女漫画には、この映画でコナー君がしてるようなファッションをしているキャラクターがたくさんでてくるよな、なんてことを考えていて(枠外コーナーとかにCUREやエコバニ好きとか書いてあったりしたような)当時のブームってほんとすごかったんだろうな〜ということを思ったりしました。


そんなわけで、私にとって「シング・ストリート」は最高のバンド映画かつ、最高の兄弟映画でした。
間違いなく今年のベスト3に入ると思う。おすすめです!

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2016年の空想科学映画「シン・ゴジラ」

最高でした。
こんなゴジラ映画が見たかったんだよーと思うゴジラ映画だったし、こんな庵野監督作品が見たかったよ!と思う庵野映画だった。

庵野監督が樋口真嗣監督と組んでゴジラの新作映画を撮る、という話を知ったのは昨年の4月1日のことで、日付からいって一瞬エイプリルフールなのでは、と思ったりはしたものの素直に楽しみだなと思ったのは、2人の監督が特撮映画の大ファンだということを知っていたのはもちろん、「特撮博物館」で見た「巨神兵東京に現わる」のメイキングがとても印象に残っていたからでした。
ビルが壊れるシーンひとつに気が遠くなるような繊細な仕掛けがあり、撮影後に再生して皆で「これだよなあ」と笑顔を漏らす。
適材適所で最大限の創意工夫を凝らす職人の集まりにぐっときて、ことあるごとに思い出している映像なのですが、このシン・ゴジラは、物語的にも、映画制作側のスタンスとしても、その印象と重なるところがありました。

ゴジラ映画を制作するにあたって、製作発表時の庵野監督はこのように語っています。

ゴジラが存在する空想科学の世界は、夢や願望だけでなく現実のカリカチュア、風刺や鏡像でもあります。現在の日本でそれを描くと言う無謀な試みでもあります。

そして今この言葉を見ると、まさしく「シン・ゴジラ」は2016年の空想科学映画であったと感じます。
2016年にゴジラが現れたとして、人間はどう立ち向かえるのか。そういう映画だった。

制作陣の歴代ゴジラ映画への敬意をこれでもかというほどに感じる作品でありつつ、けしてゴジラファンだけに向けられた映画ではなく、初めてゴジラ映画を見る人も存分に楽しめる作品だと思います。
あと、庵野監督のエヴァシリーズが好きな人で「なんで新作先延ばしにしてゴジラなんだよー」と思った方には、ぜひ劇場でウォッチして欲しい。全力でおすすめします。
できるだけ大きなスクリーンで見るのがいいと思う!


【以下内容に触れますので注意】

いきなり始まってるし、事件の只中に止まったりしない。だるい会議のシーンを描くのにもテンポがよく、だからこそずっと緊張感が続く。
映画を見てる側はゴジラが現れることは知っているわけですよね。だから、楽観してる人々の下りをだらだら描いていらいらさせたりはせず、むしろ楽観が裏切られるシーンを重ねていくことで緊張感は保つという盛り上げ方はとても気持ちが良かった。

それからこれは映画「火星の人」を見たときにも感じたのですが、恐怖や絶望に立ち向かう人々を描くのに、人が泣き叫んだり慟哭したり、愛に目覚めたりする場面を使わず、ただ自分に与えられた職務に邁進する様子が描かれるのもとてもよかった。
愛に目覚めるのが悪いわけではないし、物語の登場人物の中にはそういう人もいたと思う。ただ、ゴジラという圧倒的なものに、個体としては弱い人間がどう立ち向かうかというお話を描く上で慟哭や愛の目覚めはどうしても物語の速度を緩めるし(30秒で脱出しなきゃいけないのに今キスする!?みたいなことはよくある)、この「シン・ゴジラ」はリアリティと速度を非常に大切にしている映画だったと思います。

例えば、役者の顔を見せるために防護服を脱いでたりはしないわけですよ。でもどれが誰だかすぐわかる。役者さんの使い方もとてもうまかったなと思います。
抑え目の演技が続く中、唯一、石原さとみさんだけが場の雰囲気を壊すキャラとして配置されていましたが、あれは何というか、ミサトさんだな…!と思いながら見てました。私はとてもよかったと思います。ヴンダー!というミサトさんとガッジーラという石原さとみさんが重なりました。
とにかく誰か1人が英雄になるわけではなく、適材適所で知恵をしぼり行動をすることでゴジラに現実的に立ち向かうというのがとても熱かった。たぶん「いやこれは現実的じゃないでしょ」という推敲を気が遠くなるほど重ねた上での脚本なんだろうな。最高だ。

メインは政府の人間なので、一般市民の台詞はほとんどないのだけど、例えば、人のいない家電量販店のテレビ売り場に1人残された店員が、テレビの報道に目を奪われている最中に停電する、という場面の絶望感などは非常に印象的だったし、
もちろん携帯カメラで撮影を続ける市民、のようなシーンもありつつ、一般市民を愚かなモブとして描いてないところもとてもよかった。

ゴジラについては第一形態の、これは何だろう…? というところからの、え、まさかこれがゴジラなの!?という新鮮な驚き。予告で見せてたのと明らかにサイズが異なることからの先の不安、という伏線の作り方にやられたなと思いました。
個人的に何より嬉しかったのは、ゴジラとは「畏れ」である……とかいいたくなるシーンでばっちりゴジラのテーマがかかるところです。
パンフレットで、今回音楽を担当された鷺巣詩郎さんが、シン・ゴジラの音楽を担当するにあたってシリーズを見返して「ゴジラ映画である以上、伊福部音楽からは逃れられない」と語られているのが載っていて、ほんとそうだよなと頷きまくりました。怪獣大進撃のマーチもかかるよ!


ゴジラ映画は上の弟が大好きで子どもの頃よくビデオで見ていた…というくらいの知識なので、曖昧な部分もあるのですが、ゴジラ映画といえば、ゴジラと何らかの怪獣が戦う、というものが多いと思います。でも、今回のゴジラは基本戦ってはいません。人間がゴジラという脅威に立ち向かうお話です。そういう意味で画像のコピーにある「ニッポンVSゴジラ」という言葉は正しいし、第一作の「ゴジラ」に最も近い作品だと思う(検索してみると最初の上陸地も初代と同じ品川のようです)。
そういう意味で今回最も滾ったのはゴジラが街を破壊するシーンよりも、最後の「ヤシオリ作戦」でした。
作戦名からいっても「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」の「ヤシマ作戦」を思い出す人が多いのではないかと思いますが、作品全体の印象としても個人的には破に近いと感じた。
中でもヴッと声が出てしまったのは東京駅付近でゴジラを足止めするための新幹線爆弾からの無人在来線爆弾ですよ…。あれは鉄道ファンの人の感想を聞いてみたい。あれ思いついたのすごいな…。

そして、そもそもゴジラ映画は「当時社会問題となっていたビキニ環礁の核実験に着想を得て製作」されたもので、今回の映画ではそこが海中に投棄された投棄放射性廃棄物によって産まれたという設定になっています。3.11を経た現代の日本でそのテーマを描くというのはとても難しいことだと思いますが、その点についても監督の覚悟を感じる映画でした。


等々、見所はたくさんあるのですが、情報量が多くて把握しきれてないところもあるのでまた映画館で見たい
本当に面白かった!!!

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「FAKE」

森達也監督の新作、『FAKE』を見ました。
なんとドキュメンタリー映画を撮るのは「A2」以来15年ぶりとのこと。
書籍はコンスタントに出ている印象だったので、映画がそんなに久しぶりとは思わなかった。
たしか「世界が完全に思考停止する前に」*1の後書きに、次は今上天皇を撮りたい、と書いてあって楽しみにしていたのだけど、それはやはり難しかったということなのでしょうか。

『FAKE』の主題は佐村河内守さんとその奥さんでした。

テレビよりもインターネット、特にTwitterでニュースを知る事が多くなった今、佐村河内守さんの「事件」のような、所謂ワイドショー的に消費される話題の旬はそれほど長くないように思う。キャッチーな話題であれば拡散され、情報が入り乱れて、ネタになり、あっという間に古くなる。
もちろんテレビで長いこと同じ話題を取り上げ続けている(追いかけている)場合もあるけれど、
「古くなる」という感覚は厄介で、それは「そういうもの」としてそれ以上関心を向けない、ということに近い。
佐村河内守さんの話題にしても、まあ「そういうこと」なんだろうな、と結論づけて忘れ、でも〈ゴーストライター〉という言葉と同時に思い浮かべる程度になっている状態の人が多いのではないかと思う。私もそうでした。

でも「そういうこと」って何だろう。
『FAKE』は、「そういうこと」に含まれる、色々と曖昧な部分について、改めて考えるきっかけをくれるような作品でした。

佐村河内さんの話題に関していえば、
「佐村河内さんの耳は聞こえるのか」
「佐村河内さんは作曲ができるのか」
この2点について、「ひとつ嘘をついた人の言葉は全部嘘」という思い込みで「そういうこと」にしてしまっている人は少なくないのではないかと思う。
でも上の2点は、確認するのは難しいことではなさそうなのに、憶測のような情報しか目にしていない、すごく曖昧な部分だった。
個人的には、正直どっちでもいいと思っていたのでそういう特集があったとしても見逃している可能性はある。
でも、当たり前だけど、当事者にしてみればそれは自分の人生全体に関わることだし、「そういうこと」では片付けられない。
新垣さんがTVに出たり、ファッションモデルのようなことをやっているのを見る佐村河内守さんの複雑な表情を見て、まず「ああこれはどちらが悪でどちらが善、というような話ではないんだな」と感じました。

そして映画の中で、上の2点についての情報は存分に提示されます。
ただ、結論は出ない。
だから見終わって「えっどういうこと?」と声をあげている人もいました。
でも「ああ、そういうこと」という一言におさめないために、提示されたものを見て、自分で考えるということを思い出す、そのための映画だと感じました。

映画の中で、佐村河内さんの奥さんはお客さんがくるたびにケーキを出します。
テレビの人が来て、まあいかにも「佐村河内さんの味方ですよ」的なことを言って帰って行き、実際仕上がった番組は…という展開が続くのでだんだんと佐村河内さんの疑心暗鬼も仕方ないよなと思えてくるのですが、これも「そういうこと」のひとつだなと、こちらは緊張しながら見ている。
そんな油断してはいけないという気分で鑑賞しつつも、たまに毒気を抜かれるのが奥さんの出すケーキでした。
それから2人とともに暮らす、表情豊かな猫。

『A』と『A2』を見たときも、「そういうこと」になりかけていたオウムというものについて、そこには自分と地続きの場所にいる人々もいたのだということを、初めて知れたように思いました。
監督自身もインタビューで語っているし、「ドキュメンタリーは嘘をつく」にもあったけれど、「ドキュメンタリーと報道は違う」ので両論併記ではないし、『FAKE』も“真実はこうです”と告発するような映画ではない。
ただそこに映り込む「人柄」のようなものは確かにあって、
一度それを見てしまえば「どっちでもいい」とは思えなくなる。
そういう作品だなと思いました。


余談ですが、黒沢清監督の「クリーピー」はその逆サイドみたいな物語(映り込む人柄が信用できない話)だなと思ったので、『クリーピー』の感想も近々書きたい。