LIVE FACTORY 721@ZEPP TOKYO

ザ50回転ズ真心ブラザーズPOLYSICS向井秀徳アコースティック&エレクトリックKEMURIエレファントカシマシ渋さ知らズ
http://www.fujitv.co.jp/FACTORY/index2.html

フェス並に豪華メンツでしかも激安のライブ。向井秀徳目当てではあるものの、全体的に楽しみにしていたのですが…いろいろあって、開演時間に間に合わず、到着したらインターバル中。演奏順知らなかったので、まあ向井は終わっちゃったかもなと思ったら、始まったのは向井アコエレでした。セーフ!

向井秀徳アコースティック&エレクトリック

今日はみたことない青いギターをお供に登場。クレイジーデイズやデイズオブ猫町などを次々に演奏。eastern youthの「ささやかな願い」のカヴァーもありました。相変わらずギターの音が美しい。ちくしょう、格好良いなぁ。
ロックトランスフォームド状態におけるフラッシュバック現象、と繰り返す曲が(タイトルわからないんだけどそのまんまがタイトルかも)すごくよかった。(ここで映像とともに聴ける→http://www.if-fukuoka.com/040229/play.cgi?id=469)風景を描写するところからはじまり、描かれた残像に、音が直接触れるような感触。でも言葉が私の想像を妨げるようなところがなく、それはつまり同化させる音ではなく個々にあることの力強さを描いた音のように思う。そして、それができるのは何よりも向井さんの声の良さに核があるんだろうな。第一音から発音が良いので歌詞がとても聞き取りやすく、だからこそ頭の中にイメージが出来やすい。うん、まあ、好きなんだ。

KEMURI

いつのまにか大ベテランバンドになってしまったケムリ。久々に聴いたけど、相変わらずクオリティの高いライブだなぁと思いました。こういうバンドが元気で活躍しつづけてくれるってのはうれしいことだ。

エレファントカシマシ

ライブを見るのは初めてなのだけど、先日「冗談を休み休み言いたい」さんのこちら(http://d.hatena.ne.jp/./shokou5/20060701)の感想を読んでから、エレカシのライブ見てみたい、と思っていたので嬉しいタイミングだった。
そんで、すごい格好良かったです。エレカシは「ガストロンジャー」が出た頃までは(CD屋にいたので)よく聴いていて、好きではあったのだけど、その魅力は今になってやっとしみるところがあるということだろうか。CDで聴くのとは全く違う、場内へ真剣勝負をしかけるような宮本さんの歌にはグッとくるところがある。「悲しみの果て」や「今宵の月のように」などのヒットソングには今聴いても普遍的な美しさがあるけれど、その反面「デーデ」や「ガストロンジャー」などでの強烈なアジテーションが心地よい。「金があればいい/友達なんかいなくても」うう、と身じろぎてきなくなるような。

死ぬときがこの毎日ときっとおさらばっていうことなんだから、それまで出来うる限り、そう出来うる限り己自身の道を歩むべく、反抗を続けてみようじゃないか、出来うる限り。
胸を張ってさ、そう

ビートルズの「Oh Darlin」ぽいメロディの曲がすごく良かったんだけど知らない曲だったな。

渋さ知らズオーケストラ

楽しかったー!
会場から湧きあがるかのような音の幕開けにぞくぞくする。「渋さ」のライブを見るのは初めてなのですが、噂にはいろいろきいていて、実際目の当たりにしてみたら、こりゃやばいわと思いました。何といってもあのハレとケの入り混じる舞台演出と即興を中心とした音の楽しさ。特にサックスのソロではRETURN TO FOREVERの「ラ・フィエスタ」をぶわっと思い出した。そして後半部はとにかく盛り上がる。楽しい。言葉が思い付かないがとにかく楽しかった。もうちょっと小さいとこでぐちゃぐちゃになりながら楽しみたいと思った。
詳しくはこちら(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E3%81%95%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%BA

見れなかったバンドは残念だけど、でも大満足なライブでした。8/1(26:43 - 27:43)にフジテレビでダイジェスト版を放送するようなので、ぜひ見ようと思う。

 あの公園で

真っ暗なライブ会場の中「緑の葉っぱに差し込む、夕暮れの赤い色だけを思い出していた」という言葉を聞いて私が思い出したのは、あの町の、図書館の隣にあった、猫の額くらいの、という表現が好んで使われそうな小さな公園のことだった。入り口以外の三方向を図書館、民家、大木に囲まれているので慢性的に日当たりが悪く、そのせいかいつ見てもだれもいない。ひっそりと色あせていく赤いすべり台と青いペンキが剥げてまだらになったベンチとが不機嫌そうに顔をつきあわせている光景は「ファーストキスは公園で」なんて漫画によく出てきそうなシチュエーションでもあり、そのちょっとした背徳感を覚える薄暗さがよけいに、人を/とくに親子連れを、遠ざけているのかもしれないなんて当時中学生だった私は思った。生意気にも。
しかし私がその公園を思い出す時、真っ先に浮かぶ残像は、夏の西陽が丁度その大木から差し込んだときに見せる、あの模様のことだ。

その公園は私の通っていた中学/高校の最寄り駅から少し歩いたところにあり、当時図書館に通うことを趣味にしていた私は、その隣の図書館もまた愛用していた。確か中学三年生の夏だったと思う。夏休みに入る前に返却しそびれた本を持って、一人でその図書館へ行った。
クーラーで涼みながら、つい雑誌などを読みふけっていると、いつのまにか夕刻になってしまった。慌てて荷物をまとめて図書館を出る。夏休みのうきうきした足取りで、でも宿題がなぁ、なんてちっぽけな悩みを抱えて、足を踏み出して、すぐに気がつく。あれは図書館の入り口にまで届くほどの大木だったのだ。
陰影だけでなく夏の濃い緑色がそのまま広がったような模様を辿ってそれを見上げる。触れる私の足や腕までにしみ込みそうな濃い影。ああそうか、この大木は図書館より民家より公園より、昔からここにいたんだなぁ、なんてことを考え、私はひどく充実した気持ちになった。
が、そんなことはすぐに遠くに行ってしまった。何しろあの頃の私には新しく知るべきことがいくらでもあったし、思い返すべきことは少なかったのだ。
そして夏休みあけに、また本を借りに図書館へ行った。何も気付かずに通りすぎて、図書館へ入り、出て、ようやく気付いた。公園が明るい。なぜなら大木がなくなっているからで、その場所にはアパートが建設中だった。空色に塗り直されたベンチには、カップルが腰掛けている。その光景は、とても健康的だった。

その時に焼き直されたセンチメンタルな/薄暗い公園の残像を思い返しながら「ロックトランスフォームド状態におけるフラッシュバック現象」を聴き、私はいつからこんなに「思い出す」ようになったのだろうと考えていた。

 自問自答

言葉にならない感情を、考えることをしたいと思う。
それは問いを発することでもあり、問いに答えることでもあり、つまり、ほとんどの場合が自問自答だ。私はこう思う。なんでだろう。その繰り返しなんじゃないのか。どこかからやってきた「答え」があったら、まずは「なんで」と訊いて/考えてみたい。なんでなんでなんで? なんでなんでって訊きたいんだろう。
でもそれはほとんど自分の中で交わされる「なんで」だ。人の言うことに対して「なんで?」と思うこともあるけれど、別にその人の考えを変えたいわけではなくて、私はこう思う、を、いつも用意していたい。でも自分の中だけだと、どうしても見えない部分もあるから、人と話をして、新しい角度からの「なんで」のきっかけをもらえるのは、ありがたい/うれしい、と思うし(もちろん興味ないこともあるけど)、それに答えるための言葉が自分にないなぁと痛感して愕然とすることもある。
きっと、結論するのが目的じゃないんだろうな、と思う。でもいつかは、自分の中に答えらしきものが見つかるときがくるかもしれない。でも、それはそこまで考えた過程こそが考えの輪郭なのだろう。だから、それは自分にとっての答えでしかなくて、それで十分なのだ。
社会のルールと、自分の問いへの答えを探すことは別物なんだから。