いつか王子駅で/堀江敏幸

いつか王子駅で (新潮文庫)

いつか王子駅で (新潮文庫)

タカエノカオリエリモジョージキタノカチドキ…、耳慣れない「名馬」の名前が並び、それに導かれるようにして「残菊抄」から再び「菊花賞」へ。例えばそんなゆきつ戻りつをたどりながら、しかし私はそこに出てくる名詞のほとんどを知らないでいるのに、不思議と知らないということに戸惑いもなく、読み進めることができるのは、堀江さんの文章が心地よく目に馴染むからなのだと思う。
主人公の目線がたどるのは、王子駅尾久駅、荒川線の沿線で、あの辺りにはほとんどいったことがない私も、たぶんあのもんじゃ屋、それからあのあらかわ遊園が登場する下りでは、まるでその場にいるかのように、ゆっくりとまばたきをして、一日のゆっくりとした流れを感じている。
だからこの小説は、本を閉じた後も肌に触れている。この主人公のように生活したいと思うし、たとえ知らない名詞ばかりだとしても、私はきっとまた回遊魚のようにそこへ戻り、彼の話に相づちをうつだろう。

 くもりの遊園地/いつか王子駅で

はじめてあらかわ遊園に行った日は、さむくて、くもった日だった。園内をぐるりとまわる小さな機関車は、運転手さんの丸い背中で視界が塞がれていて、曇りでも見晴らしのよい観覧車などに比べると、そう面白いものでもなかったのだけど、突然その背中がはじかれたように伸び「おい」と列車の向こうに話しかけ、競馬の話をしはじめたのがつよく印象にのこっている。あれが菊花賞だったならつながるのに、と思ったが、そうはうまくいかない。くもりの、さむい日だったということは、たぶんきっと、サツキショウってやつだ。

町を歩くことに、とても熱心だった頃があった。近所から都内、近郊都市から海外へ。新しい道を覚えるのと同じくらい、同じ道を繰り返し、風景を覚えるのが好きだった。
当時、すでに多くの友人は働いていたし、だから平日の昼間なんて誰に会うこともなく、つまりはほぼ毎日一人でうろうろし続けていたわけだけど、それはすごく楽しくて、ほとんど取り付かれていたといってもよくて、出かけていって、そこに立てば、はじめて知ることがあると思っていたし、その予感が裏切られるということはなかったような気がする。驚くべきことに。
いまでも私の地理感覚というのはその頃に歩いたたくさんの道に支えられていて、風景の記憶とともに、その背景にあった季節まで濃厚に思い出すことができる。というより、その季節になれば、風景もゆらりと立ち上がるような感覚に近い、かもしれない。
あんな日々を送ることができたのは、仕事をやめて、次の仕事が決まっているという挟間の時間が三ヶ月近くもあったからだったのだけど、思えばわたしは、いつかあの時間をもういちど過ごしたいと思いながら、今を働いているような気がする。

あらかわ遊園に行ったのも、ちょうどその頃のことで、今日写真をあさって見たら、今よりずいぶん幼い顔した妹の写真がたくさんでてきた。「いつか王子駅で」にでてきたもんじゃを食べてる写真もあって、見ようによっては主人公の連れであった咲ちゃんのように「あっは」と笑っているように、見えなくもない。
つい3、4年前のことなのに、もうずいぶん昔のことみたいだ。

 毒吐き

もう長いこと愛読している殊能さんの日記*1は、料理とか毒舌とかなにやらグっとくる部分が多々ありつつ、携帯でアンテナ見るのが好きなわたしには時間を問わず1日に数回は更新してくれるところもたまらないポイントだったりします、そもそも自分は人のたんたんとした日記、とかTV見て一言、とか思いつき、とかを読むのがすごく好きなんだなぁ、と思う。特に今日の「オレは住みたくないね、あんなとこ」なんて、思わず電車の中でほくそ笑んだりした。やっぱ好きだこのひと、と思う。
で、私は毒舌が好きなのかっていうと、たぶん好きだ。けど、でも苦手な毒舌ってのもあって、そういうのの差が、よくわからない。よくわからないけど、それはやっぱその毒舌を発する際の引き受け方? とか思ったけどそれも何かちがう。たぶん「文章」として受け取るときのそれは結局、言葉遣いなのかもしれない。とも思ったけどそれもどこか違う。ただ、そこがわからないから、私はうまく毒吐けないんだってのは、あってる気がする。