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今日、はてなブックマーク経由で、たまたま見た記事が、あそこのあの人だったということに気づき、しかもその数分後に消えてしまい、動揺した。今までも閉鎖されるたびに、ううぅ、と思ってきて、一方的に愛着のある方だったのだけど、今回ばかりは復活そのものを知らなかったことが、なんか、で、ぐぅの音もでない。そうかぁ、と呟き納得してしまいたくなるけど、「そうか」と思えるようなこと、わかってることもしってることも何もないんだな。と、思い知ったらなんか致命的な気がしてへこんだ。
過去の注目エントリにあがっている冒頭の文とかだけ読んで、ああ面白そうなのがたくさん、と思い、これがもう読めないことにがっくりする。そしてその中に「思いつきだけで書かれたくだらない文章があふれるブログの中で」なんてコトバを見つけ出し、とどめをさされた気分になる。

文章を書くことについて、なんて記事がよく読まれるのは、ネットに文章をあげても、自分を客観的に見ることはできないからなんじゃないだろうか。あちこちに散見される「こういう文章はつまんない」とかいう批判を、自意識過剰に自分のことと受け止めても、どうすればいいのかはわからないし、それを考えることは「その人」にとって、どのようなものが良しとされているかを知りたいということでもあって、それはきっと知れないし、知れても良くなれるわけではない。
そもそも、何か他のものになんかなりたくないのに、そして期待されてもいないのに、期待にこたえたいと思ってしまうことがあるのはなぜなのだろう。

でも、なんか違う。そもそもこの場合、私は読まれたいと思ってるわけじゃなく(もちろん読まれれば嬉しくはあるけれど)読みたいと思っていたのに、なんでこんなことを考えてるんだろう?

私がつまんなくても面白くても、きっと何も変わらない。
それなのに、例えば「世界がつまらない」という人が目の前にいるとしたら、なにか、そのひとが楽しいと思うことがあればいいなと、見つけられるものなら目の前に突きつけてみたいと思うのも、きっと、ただの未練なんだろう。
バタフライエフェクト的何かを、図々しくも期待してるからなんだろう。

 RF/Views Of Distant Towns

RFことRyan Francesconiの3rdアルバム。
村上春樹ねじまき鳥クロニクル」にインスパイアされた作品、という話を聞いて興味をもったのだけど、ずっとアマゾンカートに入れっぱなしだったもの。

Views of Distant Towns

Views of Distant Towns

やっと買って、聴いてみて驚いた。酔いざめの水のように、身体にしみわたる心地の良い音。生楽器によるオーケストラを主軸に描かれる静謐なエレクトロニカは、イーノの「Discreet Music」を彷佛とさせる。しかし、このアルバムの音楽は、もっと明確に、聴く者のおかれた環境に色を添えようとしている。空気に溶け、振るわせ、肌に触れる。どこかで聴いたことがある音のような気がする。白い壁、漆喰の、ガラス張りの天井、そこに移る緑色、日差し、丘の上からみる街、しんとして、目を開くたびに異なる景色の中に降り立つような。

ねじまき鳥クロニクル」という物語と、イメージを重ねた理由はほとんど感じられなかったのだけど、きっと聴く人それぞれに、物語を重ねることができる音楽なのだと思う。懐かしい、きれいな。