「私・今・そして神」/永井均

私は「〈子ども〉のための哲学」を読んではじめて「哲学」というものに具体的な興味を持つようになったのだけど、この本のように「思考の過程」を読むということは、とても興味深く、時間のかかることだなと、今回改めて痛感した。1ページに書かれていることは、おそらく何時間もの思考の経過であって、それを、全ての可能性を開こうとしながら読むのだから、本を開くたびに頭の中の固定観念のようなものをほぐさなければならない。これまでに読んだ2冊の本は、その方法でなんとかイメージして読むことができたが、今回の本については、カント的、ライプニッツ的、などという言葉を理解できない私にはかなりハードルが高かった。
それでも、それを知らないということで、イメージしやすかった部分もあるので、感想を書いてみようと思う。ただし、内容についてはたぶん理解できてない。

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

第一章「開闢の神をめぐってたゆたう序章」

この章では「5分前世界創造説」と「50センチ先世界創造説」というものを対応させて考えつつ、〈今〉というのは〈私の今〉である、それならその〈私の今〉を作り出す存在として神の存在をどう捉えるかということだったような気がする。
私が今までイメージしていた世界というものは、例えば長くせり出した崖のようなものがどんどん崩れて行く映像を、逆回しに再生したもの、という感じだった。人々はその崖の先端に向かって歩いている。いつかはその崖は崩れるわけだけども、今は逆回しになっているので、私(私たち)の足もとから、その都度地面が出来上がっていくというような感覚だ。つまり私は過去については疑っていなかったということになるのだけれど、5分前に世界が出来た、ということを考えてみると、それまでの私はどこに行ってしまうんだろうか? 
この章の中では、ある日突然ロボットに心が与えられるということを例に、それは神だけがなしうる仕事であるとしていたけれど、それは私も無条件に信じていたことだ。しかし、その逆、ある日突然私から心が失われてしまったとしたら? それまで他人であった存在が〈私〉になるとしたら?
そう考えて行くと一体私を〈私〉たらしめているものはなんなんだろうと考え込まずにはいられないんだけど、感覚的に、それはこの身にまとう「時間」であるような気がする。記憶を失っても他者から見て識別される私は、「記憶を失う」という経験をした私である。でも、でも他者が私になってしまったら、それは私にしかわからない。うーん? それでもやっぱりそれは「それまで他者とされていたものになる」という経験をした私にしかならないんじゃないだろうか。どうか。
しかし、常に考えの中心点になってしまう「私」という点は不思議だ。

第2章 ライプニッツ原理とカント原理

その「私」という点について、第2章のライプニッツ原理についての節で、

私とは、現に世界がそこから開けている唯一の原点のことである。p106

と書かれている。うまい言葉を使うなぁと思ってやっと「開闢」という言葉の意味を思いだすことができた。この辺りまでずっと、開闢ってなんだったかなぁと思いながら読んでいたのだ。
ともかく、この章については、カント、ライプニッツデカルトなどという名前を見ても彼らが何を考えた人なのか良く知らない(世界史で習うような。名句しか知らない)私には全体の意味を理解することはできなかった(憶測できてたかすらあやしい)。しかし、話題の中心となっていたのは「現実の中にいろいろな可能性があるのか、可能性の1つがこの現実なのか」という事だった、ような気がする。そこから、唯一の原点であるはずの「私」が分裂するということがありえたとして、私が分裂するということはありうるのかどうか、などと考えていっても、私は結局原点である〈私〉のいるところが現実としか言えないのではないかと思ってしまう。
でもそうしたら、これまで私が思っていたように、身にまとう時間をもつ私が「私」であるという感覚も疑わしくなってしまう。……なんだか混乱してきた。
そこから話は今という時間のことに移って行くのだけど

夢を見ているとき、われわれはそれが後で思いだされることを意識していない。(中略)現実に生きているとき、われわれはすでにそれが後で思いだされることを知っている。p140

という言葉にはなるほど、と思った。
この章で私が最も面白く感じた話は、p171の「火星にいる私と現実にいる私のうち、現実の私が死んでしまう」という仮定と「現在の私と未来の私のうち現在の私が死ぬ」という仮定を学生に話したところ、第一の例では「死んでしまってもいい」と答える学生が少なかったのに対し、第二の例では「死んでしまってもかまわない」と答える学生が多かった、という話だった。これはつまり、私が二人存在することはできないが、今と未来の両方に存在することは「できる」と感じている人が多いということでもあるだろう。私自身も、直感的にそう感じている。
ということは、私はやはり、時間軸の上に(1つの崖の上に)立っているのが「私」であると感じているということなんだろう。そして、その崖が未来にまで伸びているのならば、今ここの私が消えても、地面は繋がっているはずだ、と思っているのだろう。でもほんとにそうなのかな?

第3章 私的言語の必要性と不可能性

前章で混乱したのに比べて、この章はとても面白く感じた。ふがいないことに、カントとかライプニッツとかなんだかよく知らない言葉からの開放感(この章にもそういった固有名詞は出てくるけども)もあったのだけど、そもそも私がその「言葉」にこめられた意味を共有できないということ自体が「私的言語」についての話と重なったからのような気がする。
そもそも、こうやって何かを考えるということは言葉に頼ってしか出来ないことなのだけど、ある事象を思い浮かべるということは、架空の映像によって可能だろう。しかしそれを他者に伝えようとする時に、やはり言語を使わなければならない。その際に、その言語に対する認識が同一である確証はないのだ、という話が中心だったような気がするのだけど(気がするばかりだけど)、そう考えてみると、言葉というのはほんとうに「後から」生まれたものなんだなと感じる。
例えば、今私が見ている「それ」を言い表す為には、過去の経験の中から、言葉を選ばなければならない。
まったく新しい言葉を生むと言うことは可能なのだろうか? 音という意味でなら可能かもしれない。しかし、仮にそれが可能だったとして、それは今ある世界と繋がっているのかどうか。

おそらく言語は、たとえ私的言語であっても、それが可能である限り、どこまでも同格の他者の存在を、つまり対称性を要件としている。すなわち、語られた内容と理解される内容との一致、という要請である。p222

しかし、この〈私〉という感覚こそが私的なものであるとするなら、その感覚は他者の理解を得られる可能性のないものだからこそ、「世界がそこから開けている唯一の原点」足りうるんじゃないだろうか。そして、その私自身を含む幾つもの点を結ぶものとして、人は言語を生み出したんじゃないだろうか。なんてことを考えた。
というかこの本に書かれていたことをそう感じたんだけどそれがあってるのかどうか解らないってのは言語の難しさというより私の思考能力や知識の足りなさの問題な気もするけれど。
哲学の話からはずれるけど、言語の問題については、よく「私の思っているそれ」と「相手が理解してくれるだろうそれ」との差についてよく考えさせられることがあるし、だからこそ私は「断言」ってしにくいなと思う。今そうであっても未来どうなるかわからないものについてどう語るかということはとても難しいし、過去「そうであった」ということに関しても、私が見たことのあるもの以外について断言して良いものなのかどうか悩んでしまうのは何故か、ということに対するヒントがこの本にあったような気がする。
たしか京極堂もそんなことを言ってたなと思ったのだけど、どこでその台詞があったのかが思いだせない。
ともかく、理解できたかどうかは別として、とても興味深い本でした。次は何をよもうかな。