スローターハウス5/カート・ヴォネガット・ジュニア

slaughterhouse-five
ISBN:415010302X
タイタンの妖女』における《さまざまな「真理」が「時計の部品みたいにぴったり一つになっている」》時間等曲率漏斗に飛び込んだ男、ラムファードのように、この物語の主人公、ビリー・ピルグリムもまたトラルファマドール的な四次元空間に生きている。
この物語の中でビリーが彷徨うことになる時間の断片は時間も場所も混沌としているが、物語の中心は第二次世界大戦中にヴォネガット自身も捕虜としてその場にいたというドレスデン爆撃を中心としている。今まで読んできたヴォネガットの作品の中では最も「作者自身」の言葉に近いものもあるんじゃないかと思うけれど、そう簡単に言い表せるような物語ではなかった。ヴォネガットのことだから、そこにブラックユーモア的な何か暗喩めいたものがあるのかもしれないけれど、私はそのトラルファマドール的な時間の捉え方を把握することばかりに気を取られていたし、それだけで充分面白い作品だった。

「今日は平和だ。ほかの日には、きみが見たり読んだりした戦争に負けないくらいおそろしい戦争がある。それをどうこうすることは、われわれにはできない。ただ見ないようにするだけだ。無視するのだ。楽しい瞬間を眺めながら、われわれは永遠をついやす――ちょうど今日のこの動物園のように。これをすてきな瞬間だと思わないかね?」p142

トラルファマド−ル星人の言うところによれば、すべてのわれわれは「瞬間という琥珀に閉じ込められている」ものであり、全ての瞬間は既にあるものなのだ。そのような世界の中では、死すら一瞬の出来事に過ぎない。戦争の悲惨さや人の死は「あらかじめ決まっている事」であり、避ける事はできないのだが、同時に別の時間の中ではその人は生きているのだ。だからこそ、この本の中ではすべての死について「そういうものだ(So it goes.)」と記されている。
しかし、物語の終盤になって(終盤?)ビリー・ピルグリムはこのように語る。

ときにはどれほど死にきっているように見えようと、われわれは永遠に生き続けるのだという考えが、もしかりに真実であるとしても、わたしはそれほど有頂天にはなれない。p248

それは何故か、というと、トラルファマドール的時間軸の中では、その「瞬間」を選ぶ事が出来ないからだろう。
それでは、私たちの辿る三次元の世界と何も変わらないのではないだろうか。その悲惨さの中にも楽しい幸福な瞬間が存在するのと同じように、楽しい幸福な時間の中にも逃れられない悲惨さがある、という意味で。
 *
物語の中のビリー・ピルグリムは、四次元的時間軸の中にいながらにして、一本の意志の流れをもっているように読める。その意志の流れはやはり三次元的であり、それを否定すると「今」ってなんだということになってしまうのだけど、結局は「今」しかないということなのかもしれない。
だったら、この「今」があるということを喜ぶべきなのだ。全ての悲惨さを「そういうものだ」とする達観に貫かれていたビリーの目に最後に映ったのも、そのような輝かしい「今」だったと思いたい。全てがナンセンスなんだとしても。

この物語はこう始まる――
聞きたまえ――
ビリー・ピルグリムは時間のなかに解き放たれた。
そして、こう終わる――
プーティーウィッ?

ところで最初にこのように入り口と出口を示す語り口はヴォネガットの特徴のような気もするんだけど、ぐっとくる。そういえばこの前読んだ「不思議のひと触れ」にもそういうのがあった。