無害な非真実

先日、たまたま用があって地震の日の夜歩いた道を通りかかったとき、普段は方向音痴で、一度しか通ったことのない道なんてすぐに忘れてしまう自分が、その風景をわりと鮮明に覚えていることに気がついた。あそこの喫茶店で休憩した、とか、大通り沿いの小さな美容院に「トイレお貸しします」って張り紙があったこととか。曇り空の下の今とあの夜道が同時に流れ、時間の縦横が入れ替わったような気持ちになる。

ここ最近、何度か、自分の好きなあるものが「役に立たない」と言われているのを、読んだり聞いたりした。そういう時に思い浮かべたことのひとつが、ヴォネガットの「猫のゆりかご」序文にある文章のことだ。

「フォーマ(無害な非真実)」を生きるよるべとしなさい。それはあなたを、勇敢で、親切で、健康で、幸福な人間にする」(p4)

原語ではどう書いてあるのか知らないけれど、「無害な非真実」とはどんなものなのだろうか。物語の中では、それこそが「ボコノン教」という架空の宗教なのだけど、
もしも自分を「勇敢で、親切で、健康で、幸福」にするよるべとなるものがあるとするなら、と考えてみると、それは真実でも非真実でもどちらでもいいようなことなんじゃないかと思う。

ときどき、10年後の自分が今日の自分を見ているところを想像する。同じように、日差しの加減や空気のにおいがスイッチとなって、10年前の自分をのぞいているような気持ちになることもある。
どちらもたまの晴れ間みたいに気持ちのよい瞬間で、その視線はわたしの「無害な非真実」のひとつなんじゃないかと思う。