がんばれ問題

「がんばって」っていう言葉が使いづらくなったのは、ここ数年のことのような気がするんだけど、ではそういうときに、何を言えばいいんだろう、というのには、なかなか結論がでない。それは私にとって、かなり頻繁に考える問題だったりするんだけど、昨日の、id:tranquilityさんの日記(http://d.hatena.ne.jp/./tranquility/20060122#1137937530)でその逡巡について書いてあるのを見つけて、ここでちょっと、自分の考えを整理してみようと思った。
ちなみに「がんばれ問題」という命名はid:troubleさんによるものです。(横からちょっと拝借いたします)
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はてなのキーワード「がんばれ」には、こんな説明がある。

【がんばれ】
1 困難にめげず我慢してやり抜くように、励ますことば。 
2 鬱病の人に対しての禁句で、「がんばれ!」とか「怠けるな!」は、絶対に言ってはいけない。 「心と身体が疲れきっていて、動きたい、がんばりたい、と思っているのに動けないのが病気。 充分に休ませることが必要で、追い討ちをかけるような「がんばれ」という言葉は禁句」

確かに、既にがんばっているときや、がんばろうとしても力がでないときに、「がんばってね!」と言われると、そこはかとない無力感に襲われることがある。その感覚は、すごくよくわかるから、私も「がんばって」という言葉を口にするのには、ためらいがある。それは相手が病を抱えてる人ではないとしても、だ。
相手が困難な状況にいることは理解している。けれど自分は何もしてあげられない、という時に、私は何を言えるだろうか。
それはまあ、状況による。「(あんまりがんばりすぎないで、)体には気をつけてね」とか「うまくいくといいね」とか「(がんばってるのは知ってるから)私もがんばるね」とか、いろいろ考えて口にするのだけど、言外に「がんばる」という言葉がまとわりついていて、何を言ってもきれいごと、他人事のようなニュアンスになってしまう。そして私は気付いてしまうんですよね。「何もしてあげられない」ということが、結局は「何もしてあげるつもりがないのだ」ということに。
ちょっと考え過ぎにも思えるけど、でもそれが大概において核心なんだと思います。
でも、だからといって、その相手がどうなってもいいという訳ではなくて、やっぱり自分と関わりのある人には、幸せでいてほしいという身勝手な願望もある。
全ての人に何かをしてあげられるような聖人にはなれないし、なるつもりもないし、して「あげる」なんて立場にいないこともある。それに鬱陶しいだけだよなって状況もあるし、でも圧倒的に多いのは、私に出来ることなんて何もないって時だったりする。
でも、せめて言葉を練ることで報いたいと思ってしまうから、その人のためだけの、定型句ではない何かを言いたいと思って、「頑張れ」以外の言葉を探してるような気がします。ただの自己満足だけど。

それでも時々、ほんとに「がんばって」欲しい状況にいる人と対峙することがあって、それは「頑張る」の語源として「我を張る」という言葉があるけども、とにかく自分を信じていってくれればきっと、うまくいくよと思う時だったりする。そういう時には、やっぱり「頑張って欲しい」と言うことにしてる。「頑張ってだめだったらどうすんの」と言われたら「大丈夫」と言い切るくらいの、(個人的な)覚悟をもって「頑張って」という言葉を、使わなきゃ言えないことも、やっぱりあるような気がする。駄目だったときは、またその時で、何か力になりたいと、その為に自分が頑張るだろうことを知ってるから、言ってもいいんじゃないかなと思ったり。
でも、その言葉が何であれ、頑張ってほしいと思うことは、やっぱり「幸せになって」と言うことに似てる、と思うわけですよ。

なんて。そこまで考えてないときも、あるんですけどね(てきとう)。自分の言葉には、責任をもちたいと思ってるけど、常にその責任のことばっかり考えていたら、言葉を発するタイミングを逃してしまうこともあるし。
要は、適当な言葉でお茶を濁してる感じがあるから、「がんばれ」をためらうんじゃないかなと思います。
自分が受け取る側だったなら、まあある程度は、頑張ってるんだよということを理解されてるなぁと思っていれば「がんばれ」と言われることも嬉しい。たぶん、逆もそうなんじゃないかな、と思ったりする。
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そして、それと同じように、使うのをためらう言葉が「わかるよ」だったりする。でも、これはまた今度。