「主語のない述語は暴走する」

今朝、会社に着いて、いつものようにMSNを開いたら、こんな記事が目に入った。

発信箱:どのツラ下げて… 山田孝男(編集局)
むかし軍部追従、いま検察追従で、変わらぬものといえば俗論迎合の卑しさしかないおまえが、どのツラ下げて明日を語り、針路を説くのか。そう感じている読者が少なくないと思う。
(略)
いまや政治に対する観察者、批判者であるという以上に、政治権力を生み出す装置となった感のあるメディア。その無節操な暴走癖、過剰な存在感・圧迫感と加害性を省みず、「悪いのはオレではない」と逃げ腰の醜さが読者の失望を誘っているようだ。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060130k0000m070110000c.html

まるで決意表明のような記事だけど、毎日新聞という大手メディアに属する人が、このような、感情を垣間見せる言葉で、自己批判を語るということが、なんだか新鮮に思えた。
でもきっと、この人だけでなく「メディア」に属する個人の中にはこのような意見を持った人が少なからずいるのだと思う。(希望的観測過ぎるだろうか?)ただ、今回の件については、私が見る限りネット上での意見(個人を中心として)とテレビや新聞での論調があまりにも違うことにおどろきつつ、カウンター装置としてこれは機能している/しつつある、のかもしれない、なんてことも考えたりしてた。そして、この決意表明のような文章は、どちらかというと、マスメディアに属する「個人」の意見に近い気がする。
先日読んだ森達也さんの「世界が思考停止する前に」という本に、こんな言葉があった。

遺族や被害者が報復感情に捉われることは当たり前だ、なぜなら彼らは当事者だ。この感情を社会が共有しようとするとき、一人称であるはずの主語がいつのまにか消失する。本当の憎悪は激しい苦悶を伴う。でも主語を喪った憎悪は、実のところ心地よい。だからこそ暴走するし感染力も強い。(p48)
「主語のない述語は暴走する」

2003年の3月23日に朝日新聞に掲載された文章だ。
そして、毎日新聞の記事にある「無節操な暴走癖」というのは、まさに主語を消失している状態のことをいうのではないかと思う。そして、この記事が「新聞社のもの」として新鮮だったのは、個人として「主語」をもった文章だったからなんじゃないか。
雰囲気や流れに同調することが、必ずしも悪いことだとは言えないけれど、それを他人に伝えるという責任を持っている側が主語を失ってしまっているのは「組織」であるということに甘んじているからなのかもしれない。
上にリンクした文章で「白紙の新聞を出した」と言っているのは40年代の話だ。現在ならば、白紙で新聞を出すよりも(それもインパクトはあるだろうけど)「どのツラ下げて」と思われるような自戒の表明の方が、有意義だと思う。