求めよ、さらば与えられん!

昔、人は攻撃されると、剣で戦い盾で身を守ったといいます。
もしかしたら今でも、剣と盾で戦っている人たちはいるのかもしれませんが、いざ自分が戦うとなったら、ピストルや、大砲や、できるだけその敵から離れる手段を、選ぶ人のほうが多数なのではないでしょうか?
なぜならば。
なぜならば、盾が進化していないからだ、と私は考えます。矛盾は常に、盾が打ち負かされる可能性をゼロにできません。だからこそ防御をする人は盾に絶対の信頼をおけないのです。
例えば、盾に似たものの1つに、傘があります。
昨日、私は夕立を避けながら、やっとの思いで駅にたどり着き、電車を乗り継いで地元の駅まで帰って参りました。けっこうな時間だったと思います。疲れていたのでバスに乗る事にしたはいいものの、なかなか発車しないバスのなかで、私はいつの間にか、うたた寝をしておりました。
ハッと目が覚めると、そこが私の降りるべき停留所でした。「おります、」と言って慌ててバスをおりると、そこは雨。しかも傘が無い。行かなくちゃ…君に逢いに行かなくちゃ〜
ともかく。傘をなくした私は為す術もなく雨に攻撃されるままであり、雨をしのいで歩いた数十分前が台無しになり、服も鞄も、ずっしりとぬれてしまったわけです。
思えば、傘。その不完全さはちょっと原始的すぎないか、と常々*1思っておりました。鉄の塊が地を駆け、空を飛ぶ時代です。インターネットはすごいらしいです。インクが最後まで使えるボールペンだってあります。しつこい汚れもスッキリです。
それなのに傘。片手は塞がるし濡れてるし足下はびしょ濡れになるし…。主に価格方面でしか改良されてきていない気がします。
でも、それをいったら洋服だってそうですよね。いつまで布なんだと。ねえ。で、ふと考えてみると盾的なものはたいてい、防ぎきれない穴があるように作られているように思います。や、盾的なモノって何、と聞かれても、よくわからないんです。自分を守ろうとするときに使うモノのこと、としか答えられません。でも。完全な防御はない、ということはつまり、完璧な攻撃もないわけです。それはつまり、求め、与えられる可能性は、戦いにはないということをしめしていないでしょうか?
傘を完璧に近付けることは、たぶん雨を攻撃することです。雨を攻撃することは、最終的に雨から守りたかった自分を攻撃することになる……。
そんなの使い古された詭弁かもしれません。
ただ、世界には様々な発明と、真理が溢れていて、世界を革命する力は、完璧な防御を求めることでは得られないのだと、すっかりウテナ脳になったわたしは考えたりします。
求めるものから遠ざかる攻撃という防御ではなく、必要なのは雨との共存なのかもしれません。そもそも雨に濡れることは悪いことなのか?
そう問うことから革命ははじまるのかもしれません。
まぁ、嫌なんですけどね。でも雨に濡れない人生なんて、味気ないよねと思えるような気はして、もしかしたら、その結果がこの傘なのかもしれない。
そんなことを思ったりする、梅雨のはじめのうやむやでした。