7月号のIKKIで読んだ、「金魚屋古書店」第37話「乙女の謎」が印象に残っている。乙女ロードを舞台にしたお話で「ボーイズラブがないと生きていけないの」という女の子が出てくる。そしてその話を聞いた男がいう台詞がこうだった。
「でも、わかってはもらいたいんだろ。
自分の事を たった一人の 誰かに。
生きてれば 当たりまえの 望みだよな。
読んでねーけど そんな感じの 漫画達だ。」
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かつて、少女漫画で描かれる恋愛の主流(というか多く)は、「冴えない私」が「選ばれる」お話だったように思う。
例えば、今からするとかなりイメージ違うけど、くらもちふさこ作品にも「白いアイドル」があったように、特に70年代の恋愛ものにはそういった恋愛に対して受け身である話が多かったように思います。(でもこの年代の少女漫画はあまり読めていないのでなんともいえないのだけど)
そして、「白いアイドル」と同じ単行本に収録されている「メガネちゃんのひとりごと」は、メガネというコンプレックスを「メガネは君の魅力だぜ」と言われることで自分を肯定するお話になっている。つまり「冴えない私」という劣等感が、選ばれるということによって補われるお話ともいえる。
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私が漫画を読みはじめたころ(80年代前半)の少女漫画を思い出すと、幼なじみとか、「運命の出会い」や「初恋」からの恋愛もの(例えば「ポニーテール白書」や、「星の瞳のシルエット」「月の夜・星の朝」)が目立つ。ここで女の子と男の子の立場はほぼ平等であって、どちらかが選ばれるという立ち位置ではない。
そしてこの頃、「純情クレイジーフルーツ」(や「星の瞳のシルエット」)のように、複数キャラクターの視点を通して、ひとつの物語の中の、誰に感情移入するかを読者が選べるような作品が増えてきたように思う。
これは少女漫画における個性(コンプレックス)の肯定なんじゃないかなと思う。そして、いきなり飛んで90年代後半「ハッピーマニア」では、主人公自身がコンプレックスも抱えたまま「選ぶ側」に立つお話になっている。しかし、そこにあるのは選ぼうとしているのにもかかわらず、選ばれようとするアンビバレンツ。安野モヨコがこのあとに「花とみつばち」という男性視点からの恋愛漫画(?)を描いたのはすごくわかりやすい転換だった。
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つまり、少女漫画(女性誌にかかれているものも含む)では、もう「選ぶ」お話が主流になっていて、選ばれるために拘泥するお話は描きにくいんじゃないだろうか…。
「恋をするって人を分け隔てるという事じゃない」
よしながふみ「愛すべき娘たち」
という言葉は、その気分を端的に言い表している。物語の中で克服されてきたコンプレックスを、個性という言葉で克服しても、現実ではそれが「選ばれる」理由にはならなかった。つまり、選ばれなかったものは、「分け隔てる」という行為自体を忌避するようになる、ということなんじゃないだろうか。
そして、最初の「自分のことを、たった一人の誰かにわかってほしい」という台詞は、そのコンプレックスを共有できる相手と出会いたい、という言葉に思える。理解でもなく、許しでもなく。そんな関係がボーイズラブをあらわしているのならば、それが異性愛で描きにくく(共感を得にくく)なったのも仕方ないのかなと思うのだ。つまり、それは向こう側だからこそ「わからない余白」を残せる物語なのかもしれない。*1
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そして先日、本屋で見た少年漫画(?)の帯に「平凡な主人公と美少女が…」という文字を見つけて、この温度差は、すれ違っているのかそれとも近付いているのか、どっちなのかなとか思いながら、もうちょっと考えてみたいなと思っています。
でも、まずは「金魚屋古書店」でとりあげられていた「コンプレックス」という作品を読んでみたい。
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