ヘンリー・ダーガー 展「少女たちの戦いの物語 夢の楽園」@原美術館

15000ページにもおよぶ『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコーアンジュリニアン戦争の嵐の物語』を執筆し、この物語を題材にした絵巻を描き続けたヘンリー・ダーガーの作品群は、彼の死後、大家であったネイサン・ラーナーによって見いだされ広く知られることになった。
彼はその人生のほとんどを「非現実の王国」に捧げ、それを誰にも知らせずになくなった。展示されていた彼の住まいの写真には、作品に使用された大量の資料(雑誌など)が所狭しとつまれている。その部屋を訪れる人は牧師のみで、彼はその生涯のほとんどを、他人との交わりなしに過ごした。……と、そのようなあらすじはダーガーの絵を知れば耳に目に入ってくることなのだけど、今回の展示を見ていて、そこにあるのが実物だからこそ、やはりダーガーという人そのものを向こう側に見てしまうし、何の予備知識もなしにこの作品群に触れていたらきっと「このひとはどういう人なの?」と知りたくなっただろうと思う。それはヘンリー・ダーガーの作品を見ると、その絵ひとつではなく、その向こうにある彼の閉じた世界の、閉じているからこその濃密さに、危うさとともに魅力を感じるからだ。
もちろん絵としてもとても魅力的で、特にその色使いは、つい「かわいい!」と言いたくなってしまうものなのだけど、一連の作品として見ると、そこに物語があるのは自然とわかる。そして、作者とその物語の親密さが感じられるからこそ、どこか落ちつかない気持ちになる。あまりにもプライベートなものを、のぞき見ているような。

今回の展示は、これまでの「ダーガー観」のようなものを少しずらしてくれるものだった。戦いを描いた作品が多く、残酷な絵も多数描かれているのは知っていたけれど、今回の展示は、戦いから、平和へという道筋が透けて見える展開になっていたと思う。
ダーガーの作品の執筆順は不明らしいけれど、鉛筆で描かれているものと、青インクで線をとっている絵を比べると確かに後者では「上達」しているし、今回の展示物の中だけでいえば、後半(と思われる)作品では明らかに戦いが終焉にむかう様が描かれている(ようにも見える)。
なんて、安易に道筋をつけようとするのはあぶないなと思うわけですが、それでももしかすると、ダーガーの中に、満足感のようなものはあったのではないかなと思えたのはよかったです。
ただ、今回の展示でもっとも衝撃的だったのは、最初の部屋の一番最初にかけられていた、「The Battle of Calverhine」でした。一見するとでこぼこの油紙。よって見ると、それが幾重にも重ねられたコラージュであることがわかり、さらに視線を滑らせると、それが戦いを描いたものであることがわかる。この瞬間のゾッとするような気持ちと、でももっと見たい。這いつくばって、すみからすみまで、この作品を見てみたいという衝動と、隣の部屋にかかっているあの淡い色彩のうつくしい絵巻物とのギャップが、またダーガーという人物を知りたくなる理由でもあるのだと思います。

それにしても、生涯をかけてひとつの物語に向かい合うというのはどういう気持ちのするものなのだろう? それを外の人へ知らせなかったというのは、そもそもそれを思い付かなかった可能性もあるけれど、きっとその物語に穴を作りたくなかったからなんじゃないか。物語の確かさを保つためには、極力「現実から遠ざからなければならない」。
最近覚えた言葉を使わせてもらうなら、物語と自分との「閉鎖系」を保つために、そこに他者の視線を割り込ませなかった。でもだから、この物語は生涯かけて終わることができなかったんじゃないか、そんなことを思いました。

参考

今回の展示などダーガーについていろいろ、Dirk_Digglerさんのこちらのエントリが詳しいです。
「S-killz to pay the ¥. - ダーガーだからこそ女の子をまもります!」