考え中

善悪の基準っていうのは、社会の状況次第でうつりかわっていくものだけど、そんなのは目隠しや蓋のようなものであって、その中にあるのはいつも、「自分にとってよいこと/よくないこと」なのだと思う。そして、それをお互いに守りあうことで安全に暮らしましょう、というのがルール/倫理、なのかなあ、というとこまでは何度も考えてみたけれど、その中心にあるものの曖昧さ、つまり「自分にとってよいこと/よくないこと」というのは共有されないことだってあるよね…という点がいつも残る。
ルールは、いろんな枠の大きさ、つまり国とか文化とか家族とか人の集まる単位によって、その基準を少しずつかえる。そして、その枠が大きくなればなるほど、一人一人の負う部分を肩代わりしたりされたりするシステムというのが出来上がっていって、それが蓋や目隠しといえばそうなのだけど、そこはけっして一人一人の負う部分を少なくするものではないはずだ。

しかし、その中にあるのは常に個人だからこそ、時に優先順位がかわることもある。そして、枠が大きくなればなるほど、枠の価値観と個人の価値観が噛み合ない人もでてくる。
でも、そういうときに、つながっている部分を想像することは、あたりまえすぎるけど、大事だよなと思う。
もちろん、自分の外側にある枠については想像することしかできないわけで、それでどうにかなることなんて自分の行動しかないのだろうけど……それはつまり、価値観の相違だけでは「よくないこと」もおこらないはず…ってことなのかな。それなのに価値観の相違が争いにつながるのは、なんでなのかな…とか。
うーん、なんだか、いろんなことを考えながら書いてたら、考えるほどに自分が不確かに思えてきた。
これを、とりあえずの結論として「固める」には、法律や宗教のようなものが必要になるのだろう。
しかし、家族のように、曖昧なまま、よいと思うことを、共有できるだろう相手もいる。そしてその存在は、ずいぶんと心強いものなんだなって、改めて思う。

話が少しずつずれてった。もうちょっと考える。