ユリちゃん

昨日読み終わった短編集*1に、木のウロに住む恋人の話がでてきた。湿った土の上を、灌木をかきわけて進み…、というような表現があったかどうかは定かでないけれど、私がそのウロの話を読みながら思いだしていたのは、そのようにして通ったユリちゃんちのことだった。
ユリちゃんは私の家の裏に住んでいた女の子で、私より七つほど年上だった。黒くまっすぐな髪が顎のあたりで切りそろえられ、俯くたびに、その白い顔を覆った。日本人形みたいねと、誰かが(たぶんうちの母親が)よく言っていたのを覚えている。
幼稚園に通っている頃、母さんは産まれたばかりの弟にかかりきりで、毎日ヒマだった私は、小学生だったユリちゃんが帰宅するころを見計らって、庭の奥にある木立をかきわけ、梅の木をぐるりと回るようにして向こう側へ遊びにいった。
ユリちゃんと遊ぶ時は、だいたいユリちゃんちの庭で遊んだ。オオバコ相撲をしたり、はこべ摘んでインコにあげたり、どくだみジュース(のまない)作ったり。ユリちゃんの部屋は庭に面していて、庭遊びに飽きれば部屋にあがって漫画を読むこともできた。
ユリちゃんの部屋には古い三面鏡があった。ユリちゃんはときどき、その引き出しをあけて、きれいな箱に入ったおしろいを見せてくれた。中に入っていたパフの、ピンクのサテンリボンがかわいくて、顔を近付けるとベビーパウダーのようなにおいがした。

ユリちゃんと私は、小学六年生と幼稚園児という年の差こそあれ、割合と仲良くしていたはずだった。
しかしある日、五時のチャイムが鳴って私が家に帰ろうとすると、ユリちゃんはきゅうに恐い顔になって
「かえっちゃだめ」
と言った。当時、母親が厳しく、五時を過ぎて帰れば家を閉め出されてしまうことがわかっていた私は、チャイムが鳴り終わるまでの間に帰らなければ、という焦りで混乱した。
「1000まで数えられたら、帰ってもいいよ」
とユリちゃんは私の腕を掴んだ。まだ12くらいまでしか数えられなかった私は、うずくまって泣き出し、指を折り数を数えながらユリちゃんが許してくれるのを待った。
いつのまにか、チャイムは鳴り終わってしまった。見上げると、すっかり暗くなった空の手前に、ぼんやりとユリちゃんの白い顔が浮かんでいた。

それから、どうやって家に帰ったのかは、よく覚えていない。
ただ、その後、私とユリちゃんは急速に疎遠になった。それからしばらくの間、私は自分の家の庭に出ることすらせず、そのうちにユリちゃんは中学生になったからだ。
今になって考えてみれば、ユリちゃんのあれは冗談だったのかもしれないし、単に、さみしかっただけなのかもしれない。今になってはもうわからない。ただ、見知った顔が不意に知らないものにかわってしまったような、あの瞬間のことはずっと忘れられずにいたのだけど、
本を読みながら、あの柔らかい土の感触とか草のにおいとともに、ユリちゃんの帰宅を心待ちにしていた頃の気持ちが、わっと戻ってきたような気がした。
そして、久しぶりに庭に回ってみてやっと、もうずっと前に、あの通路は塞がってしまったのだということを思い出した。

*1:上の「おめでとう」