No country for old men(血と暴力の国)

映画「ノーカントリー」を見た後に、原作があると知って読んでみた。

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

コーマック・マッカーシーの小説を読むのはこれが初めてなんだけど、なんだかとても読み心地のよい文章だった。この人の文章の、最も大きな特徴はたぶん鍵括弧を使わないで描くということ、そして、心理描写がほとんどないということで、それは物語がひとつになるということでもあるのだと思った。意志を持った視点があるのではなく、場を通り抜ける空気のように文章がある。言葉にされたことと言葉にされていないことがあって、それは私が見ているこの世界にとてもよく似ているのだけど、でもこんなふうに「見る」ことは、できない。なにを見るかではなくて、ただそうある、というような書かれ方が、とても面白かった。
さらに、心理描写がほとんどないにもかかわらず、それぞれのキャラクターの個性が際立っているのも面白い。訳が自然なのもあって、それぞれの言葉遣いもいきいきと感じられた。あらためて、映画は原作のキャラクターを忠実に描いていたんだなと思うけれど、やはり、映画「ノーカントリー」と「血と暴力の国」という邦題は、この小説とはまた少し違うところにある、と、思った。うまく言えないけど。

この物語は、モスという男が砂漠で偶然出くわした「あること」に巻き込まれ、殺人者「シュガー」に追われるようになる過程を描いている。そしてその殺人者を追っているのが保安官のベルだ。
映画と最も異なっているのは、このベルの存在感だと思う。小説では各章の冒頭にベルの独白があり、それがまさに原題「No country for old men」という言葉を表している。映画ではモスが非常に魅力的だった(と私は思った)けども、小説ではモスの印象はむしろ薄まっていたような気もする。
それでも、この映画の中心にあるのは、やはり殺人者「シュガー」だ。その「中心」は、いわばドーナツの穴のようなもので、覗き込むことはできるけれど、その奥にあるのはけして「穴」ではない、わからないものとしてわからないまま描かれている。
たぶん、恨まれることよりも、なんの理由もなく殺されることの方がずっとこわい。「誰でもいい」という欲すらなく、その法則を推し量ることもできない。
でも、そういう存在はあるのだ、ということが、この本には書かれていたように思う。
それはとても恐ろしいことだけれど、多分サスペンスとして読んでいれば探してしまうだろう「何か」はここにはない。それでも、読み終えた後には、やはり気持ちのよい文章だと感じていた。

映画を見て一番印象に残ったのは、そういえばモスの妻、カーラ・ジーンの泣き顔だったなと思い出したので、以下引用。この人の「ルウェリン」という呼びかけがすごく好きだった。映画でも小説でも。

あたし十六でハイスクールをやめてウォルマートで働きだしたの。ほかになんにもできなかったから。でもお金を稼がなくちゃならなかったのよ。どんなはした金でも。で初めて出勤する日の前の夜に夢を見たの。ていうか夢みたいなものを。あれは半分起きてたんだと思うのよね。それでその夢だかなんだかわからないものの中であそこへ行けば彼に会えるとわかったの。ウォルマートへ行けば会えるって。彼といっても誰だかわからないし名前も顔もわからない。でも見ればすぐわかるはずだった。あたしは毎日カレンダーの日付けに印をつけていった。ちょうど刑務所に入ってるみたいに。刑務所なんか入ったことないけどたぶんそんなことすると思うのよ。そしたら九十九日目に一人の男の人が店に入ってきてスポーツ用品売り場はどこかって訊いたんだけどそれが彼だったの。売り場を教えたら彼はあたしをちょっと見てからそっちへ行った。それからまっすぐ戻ってきてあたしの名札を見て名前を呼んでこう訊いたの。仕事は何時にあがるんだい? それで決まり。あたしの心にはなんの疑問もなかった。あのときもそうだったし、今も、これからもそう。/p170