光の加減

大人になって失ったものといえば、あきらめの悪さなんじゃないかなと思っていて、それは自分が大事にできるもの、手の届く範囲においておけるものの少なさに、気づき始めたということでもある、…なんていうのはきれい事で、要するに、忘れることが少しうまくなっただけだろう。
無理を通そうとすることは、往々にしてその時の全力を傾けなければできないことだったりする。そして、たとえ全力を傾けたとしたって無理なものは無理な場合もある、と痛感してからは蛇口をいっぱいに開くことが難しくなった。
それよりはその、無理を通したいという気持ちを逸らしてしまうことのほうが楽だ、と言葉にしてしまうと実につまらないのだけど、結局はそういう意味で忘れることがうまくなってしまったのだと思う。
でもその予防線の内側になにがあるのかというと、それもやはりいつかの、懸命さだったりする。ふとした折にぶわーっと、いろんなことを思い出すタイミングというのがあるけれど、それは思い出すたびにまるで今のことのようで、まぶしい。
なつかしい曲とか、日の落ちる速度とか、アスファルトの暖かさや白い壁、電車から見える家の光とか。