「その街の今は」/柴崎友香

その街の今は

その街の今は

風景はただそこにあるものだけど、いつでも「見ることができる」ものではない。道ばたに座って、ぼんやりと目に景色を写していても「今そこを通った猫がね」と話しかけたら「見てなかった」と答えるような「見えていない」状態の方がたぶん多くて、逆にそこにあるものを注視しているからといって、風景をとらえているとはいえないのだと思う。
じゃあ風景を見るってどういうことか、と問われてもわからない。ただ私が「風景を見た」と感じる時は、たいてい目が体からはなれているような、いろんなものがいっぺんに動いていることが一枚の絵の中にあるような、そんな感じがする時のように思う。そういえば、この日(id:ichinics:20060903:p2)に考えてたのも似たようなことで、柴崎さんと保坂さんがセットでトークショーやったのも、腑に落ちる気がした。

この小説の主人公「ウタちゃん」は大阪の街の古い写真を集めている。この小説には、彼女の目を通した風景描写が多く、その視線を辿っていると、そんな「風景を見る」というときの感じを思い出す。

周防町の交差点を越えると、多少人通りが少なくなり、自転車は順調に進むようになった。とても広い御堂筋の向こうには、アップルストアの銀色の外壁が見え、林檎のアイコンが白く光っていた。振り返ると、UFJ銀行のサービスロビーが誰もいないのに、何台も機械を並べて明るかった。大丸心斎橋店の外壁はライトアップされ、古い煉瓦がいっそう暖かい色に見えた。オープンしたばかりのそごうは、波打つデザインの壁が青白く輝いていて、この場所が永遠に工事中じゃなくてちゃんとまた百貨店ができてよかったと、心から思った。その先に、ショーメとカルティエとクリスチャン・ディオールのあるビルが、おもちゃのガラスブロックみたいな壁の中からきらきらと光をまき散らしていた。その下を、仕事をしたり買い物をしたりごはんを食べたりした人たちが、どこか行きたい場所へ向かって歩いていく。
わたしは、この街がほんとうに好きだと思った。/p132

例えば、この部分を読んでも、大阪に土地鑑のない私は「この街が好きだ」とは思えないし、似たような風景として思い浮かべる銀座などを当てはめてみても「都会」だなというくらいしか思うこともなくて、さして魅力的な風景にも感じられないのだけど、この視線がこの街を好きだと思っていることはわかる。
風景だけじゃなく、人とのやりとりも「見る」という作業を通して描かれているこの小説には、あらすじとして取り出せるような物語はなく、ただ「ある」のだけど、見えたり見えなかったりする部分を感じながら、私のいるここと「そこ」が、地続きにあるような確かさがあって、そこが好きだと思った。

登場人物の一人が「純喫茶って、絶対ひとつはめっちゃおもろいことに遭うねん。そこが好きや」/p65 と言ってる場面があって、つい先日友達がまったく同じことを言ってたのも、おかしかった。今ブームなんだろうか。彼の影響で私も最近純喫茶に通ってる。