「死ぬまでに行きたい海」とカチューシャの記憶

岸本佐知子さんのエッセイ集「死ぬまでに行きたい海」を昨年末に読んだ。
自分も知っている場所の話がでてきくるのも楽しいし、行ったことのない場所も、気になっていた場所である率が高く(YRP野比や海芝浦など)、さらに田舎の思い出(丹波篠山)などは、自分が幼い頃に行った父方の田舎である広島の記憶と混じり合うような感じがして面白かった。
それはおそらく、自分の中の「田舎の引きだし」を参照しながら読んでいるからなのだろう。文章を読むということは、純粋な想像だけでは難しく、往々にして自分の知識や記憶を参照しながら読むものだ。そうして、普段の生活ではなかなか触れることのない記憶に触れるとき、私は気持ちが良いと感じる。

死ぬまでに行きたい海

死ぬまでに行きたい海

書籍のサイトには「岸本佐知子とつくる“些細な記憶”の地図」というものも作られていて、いろんな人の「些細な記憶」が地図上で読めるのも楽しい。
www.switch-pub.co.jp


これを見ながら、私だったらどこかなあ、と考えていて、思い浮かんだ場所のひとつがイギリスの夜道だった。
私は母親が運転する自転車の後ろに乗っていて、頭には買ってもらったばかりの、チュールがついたカチューシャが乗っていた。3歳の頃、1年だけイギリスのケンブリッジに住んでいたときの記憶だ。

カチューシャを売っていた店は細い、うなぎの寝床みたいな構造で、奥へと続く棚に所狭しと、様々な装飾を施したアクセサリーが飾られていた。
そこで、なぜか母は私にカチューシャを買ってくれたのだ。チュール付きの、つけると顔を半分隠すような格好になるカチューシャで、3歳児に似合うものでもないし、ねだった覚えもない。むしろ母親がそういう「無駄な買い物」をしたのが珍しかったので印象に残っているような気がする。
自転車に乗っている記憶はその帰り道だ。
頭に派手なカチューシャをのせた私は、それを落とさないように気をつけながら、自転車の後部に備え付けられた椅子からはみ出した、自分の白いタイツを履いた足を見ていた。
この記憶は脳内にごく短いgif画像のような形で保存されていて、いくら思い出そうとしてもこれ以上の記憶は出てこなかったのだけど、
母親にLINEでカチューシャのことを訪ねると「ああ、ピンク色のやつね」と返事があり、あっさりと、カチューシャ部分のサテンと、チュールには網目の交差する部分にかすみ草みたいな飾りが付いていたことを思い出した。
なんで買ってくれたのかは、なんとなく聞かなかった。

あの店はまだあるのだろうか。
ないとしても、私の頭の中にはまだこの短いgif画像のような記憶があるし、もしかすると、ピンクのカチューシャを被ったアジア人の少女を記憶している人だっているのかもしれない。

そういった些細な場面は脳内の博物館にそっとしまわれて、いつか参照される日を待っている。

ケンブリッジにはそれ以降行ったことがない。死ぬまでにもう一度でいいから、行って見たいものだと思う。

2020年に見た映画ベスト6

2020年は日常生活でも様々な制限があったけれど、それは映画を見る上でも同様で、
映画館が営業停止になり公開を予定されていた映画が次々と延期になるという事態は、私の記憶する限り、生まれて初めての経験だった。
なので、新型コロナ感染症拡大以前、以後に見た映画は、体感では1年以上昔のことのように思えるし、おそらく、以後に見た映画のことは、そのような状況下にある映画館で見たということもセットで記憶されるのだろうと思う。
以前以後の狭間で見逃してしまった映画も多々ありつつ、それでも比較的映画館にはいっていた1年だと思うけれど、それでも今年は配信でみた旧作の方が圧倒的に多い。社会情勢に関連してみた作品も多かった。実は見ていなかった名作(「ドゥザライトシング」「フラッシュダンス」「シックスセンス」などなんと今年初めて見た)、というのもあれこれ見た。
劇場公開作が、作り手側というか、社会の今の雰囲気を映し出すものが多いのに対し、配信は、数ある作品の中から選んで見ているせいか、今の自分の気分というのがよく反映されていたような気がする。


それでも先日、毎年恒例になっている友人たちとの今年の映画談義をオンラインでやれたのは嬉しかった。そのことも併せて「今年みた映画」の記録になったような気がしている。
というわけで、今年はベスト6を書きたいと思います。

6位「羅小黒戦記」


今年、文鳥を飼い始めたせいか、小さな生き物すベてにソイ(我が家の文鳥)を感じてしまい、羅小黒戦記もファーストシーンのシャオヘイの様子に感極まってしまい、それからもシャオヘイを見るたびにシャオヘイを通してソイのことを考えていた。
フーシーについてとか、物語上の納得がいかない部分は明確にあるのだけれど、それでもシャオヘイの成長の鮮やかさについての感動は、文鳥と暮らし始めて頭が文鳥色に染まっている自分の様子とともに記憶されるのだと思う。

5位「ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語


アニメ版「若草物語」がとても好きでジョーに憧れていた私にとって、好きな女優さんがジョーを演じてくれるというだけで最高だったし、子どもの頃は苦手だったエイミーに対して、エイミーの気持ちもわかるな、と思える描き方をしてくれたところがとても気に入っています。ジョーの結婚についての顛末も、個人的に原作を読んで、なんでだろう、と思っていた部分なので、余白を残してくれてよかった。

4位「ブックスマート」


世の中は良くなっている、という前提のもとにその先を描いてくれたような映画でよかった。
最近、実家の自分の部屋にあったものを処分する機会があって、中高生時代の手紙とかあれこれ出てきたんですが、思春期の自分の不遜さとか見るに耐えない〜〜となったのでブックスマートのみんなはほんと偉いよ。自分で自分を振り返るの、そんなすぐできないもんな。あとサントラもよかった。家でよく聞きました。

3位「燃ゆる女の肖像」


あまり事前情報を入れずに見にいったのだけど最初のシーンからラストシーンまで、描こうとされていることが描き切られている、と思うような映画だった。映画を見ていてこう思うことはあまりないのだけど、まるで文章を読んでいるように、セリフのない場面からも様々な言葉が浮かんでくるようで、そんなに注意深く見つめたら好きになってしまうと思いながら見ていた。
ラストシーンで物語の中の、幸せな一場面を再現して終わる、という結末がとても好きなのだけどこの物語のそれは完璧だった。

2位「ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから」

https://www.netflix.com/title/81005150
これだけNetflixでの鑑賞だけど、今年のこれは特別によかった。ブックスマートよりもっと手前の差別も偏見もある町の話だけど、いわゆる叙述トリックに近いあの語り口も、主人公2人の関係性もとても素敵だったし、他者を知るとはどういうことか、ということの描き方がとてもよかった。

1位「はちどり」


映画館が再開しばかりの頃に観にいった。まだ少し落ち着かないような気分もあったけれど、映画が始まってしまえばそんなことは遥か彼方で、映画館で映画を見るということの特別感を味わえた作品でもあった。今が過ぎることを願っていた主人公の、微かな心情の変化を浮かび上がらせる映像の素晴らしさがとても印象的。監督の次回作が楽しみです。

Kさんのこと

「わたしに無害なひと」という短編集を読んだ。
いつかを共にして今は遠い、胸のうちに引っかかったままの存在を思い起こさせるような物語が詰まっていて、1話目から引き込まれた。似たような体験をしたわけでもないのに、自分の記憶にも馴染んでいくようで、とても好きな1冊になった。


おすすめです。
というわけで以下は余談ですが、


私がこの本を読みながら思い出していたのは、Kさんのことだった。
高校の、あれは何年生だったのだろうか、ほんの一時期だけ、私たちは仲がよかった。

私は最初からKさんと友だちになりたかった。クラス替え初日、自分の席を探しているときに、窓際の席でカーテンをかぶって眠っているKさんを見て、あの子と友だちになりたい、と思ったのだった。
五十音順の席はかなり離れていて、最初はなかなか話す機会もなかったのだけど、そのうちにKさんは私と比較的仲の良かったBさんと親しくなり、そこに私も混ざるような形で3人で過ごすことが増えた。

Bさんは分け隔てなく親切で、しかもめちゃくちゃ愉快な人だった。些細な連絡事項も、Bさんから聞くと、なんだか楽しい話のような気がしてくる。そんなだから、Bさんの周りにはいつもたくさんの人がいて、
でも3人で遊ぶ時は不思議と3人きりだったような気がする。
Kさんは雪だるまのようなのんびりした雰囲気の人で、人を笑わせるのがうまいところなどはBさんとうまがあうのも納得だった。その頃から卒業後は染色を学ぶ学校に行きたいといっていて、字も綺麗で、いつも笑っており、なんというか、私はそんなKさんに憧れていたのだと思う。


3人で過ごすことが増えた、といっても遊んだのはたぶん2、3回だった。ちゃんと覚えているのは、Bさんの家にいってホラー映画をみたことくらいだ。その日はめちゃくちゃ笑った。Bさんの最寄駅名ですら面白かった。

そして、たぶん夏休みあけのある日、Bさんが「ちょっと相談していい」と私を呼び出した。

「Kさんがね、3人じゃなくて2人で帰りたいって泣いちゃってさ…」

Bさんは、ただひたすら申し訳なさそうな顔をしていた。
そうして私は、私なら大丈夫だよ的なことを言い、もといたグループに戻ったんだと思う。
その放課後の、私たちの座っていた座席の位置とか、光の感じとかはよく覚えているのに、
その後の2人のことはよく覚えていないので、これは高校3年のことだったのかもしれない。2学期からは進路別の選択授業が増えたし、受験が始まってしまえば、クラスメイトの存在感も希薄になった。


Kさんの言葉は、もちろんある程度はショックだった。
けれど私は、Kさんが”Bさんと”仲良くしたいと思っているのをわかっていて、そこに紛れ込んだ自覚もあった。なので、仕方がない、という気持ちのが強かったし、あの穏やかなKさんにそこまで言わせてしまったと言うことが申し訳なくもあった。
私はKさんが授業中にBさんに手紙を回しているのを知っていたし、Bさんから回ってくることはあっても、Kさんから回ってきたことがないことにも気づいていた。それは多分、仲間外れにしようとかそういうことでもなく、

そもそも最初から、Kさんは私には興味がなかったのだ。

1回だけ、Kさんから絵葉書をもらったことがある。
そこになんと書かれていたのかは忘れてしまったけれど、私はそれを長いこと、机の前に貼り続けていた。

随分昔のことなので、Kさんのことで覚えていることは少ない。
けれど初対面の、窓際の席の様子だけは、今でも鮮明に思い出すことができる。
彼女の背中が上下するのに合わせて、クリーム色のカーテンがゆれていた。誰かが声をかけ、眠そうな顔でお礼を言っていた。その日は確かに、確かに眠くなるような陽気で、
私はあの子と、友達になってみたかった。

12月が来た


これからいったいどうなるんだろう、と思い続けているうちになんと12月までやってきた。今年はずっと、判断保留というか、階段の踊り場で下るか上るか迷い続けていたような気がする。実際は、引越しだとか小鳥を飼うとか、生活にも様々な変化はあったわけだけど、この状況が落ち着いたら○○しよう、のフラグが折れる回数が多すぎて、できなかったの山があまりにも大きくなってしまった。
いい加減、その山は脇に置いておいて、この状況が落ち着かなくてもできることをもっと見つけた方が気分も晴れるような気がする。

最近やりたいなと思っているのは野鳥観察だ。
文鳥を飼い始めてからというもの、鳥に対する興味が高まり続けていて、先日も動物園に行ってみたのだけれど、できれば文鳥に似た小鳥を見たい私のニーズと動物園で飼育されている鳥たちの間には少々ギャップがあった。例えば孔雀とか、白鳥とか、もちろん素敵だしかわいいのだけど、どうやら私は我が家の文鳥との共通項を観察したいようで、雨宿りをしている雀を見つけたときの方がよっぽど面白い。
一軒家に住んでいたら餌台などを立てるのもいいけれど、生憎集合住宅住まいなので、
幸い観劇用の双眼鏡を持っていることだし(それで対応できるのかはわからないけれど)、近々、大きな公園にでも行って鳥を探したいなと思っている。

餌台といえば、祖父母の家の庭には鳥の餌台があった。祖父母の家のダイニングテーブルからその餌台がよく見えて、夏休みに預けられていた時など、よくりんごを置きに行ったりしたものだった。
獣医だった祖父に、今なら聞いてみたいことがたくさんある。

最近、小川洋子の「密やかな結晶」という小説を読んだ。小鳥を飼うなら、と勧めてもらって「ことり」という本を読んだのをきっかけに、今年はこれまでほとんど手にとったことのなかった小川洋子の本を続けて読んでいるのだけど、
その本に描かれているのは、様々な物事にまつわる記憶がある日突然消滅してしまう世界で、記憶が消えてしまうと、その「物体」も意味を失ってしまう。
例えば、大勢で集まって食事をすることができなくなるだなんて、昨年の今頃には想像もできなかったことなので、薄ら怖い気持ちで読んでいた。

冬は苦手だけれど、年末年始は一年で一番好きな季節でもある。毎年やっていたあれこれが今年はできないだろうことを考えるとそれもまた寂しいけれど、
それが本当に失われてしまわないように、今はできることをしていようと思う。新しい年は、ちゃんとくる。

密やかな結晶 (講談社文庫)

密やかな結晶 (講談社文庫)

私と文鳥の成長

週の半分が在宅勤務のまま夏休みに突入し、その後も続いている。
それはそれで良いのだけど、GWくらいから(つまり引っ越しをしてから)ずっと切れ目のない、ゼリーの中にいるような気分でもある。

そのような中で、自分の生活に自分以外の生き物がいるということには、何度でも新鮮に驚く。
8時に遮光カバーをかけて寝かせてからは、私も自由時間とばかりにこれまで通り過ごしていて、音がしても起きることはない。
それなのにすべての電気を消してベッドに横になると、かすかにケージの中でソイも身じろぎをしている音がするのだ。
また明日ね、と思いながら眠り、朝、カバーを外すと熱烈に歓迎される。
当たり前の世話しかしていないというのに、そんなに歓迎してもらっていいのかな、と毎朝照れるくらいだ。

まだ名前は覚えていないようだが、手をだせば8割方は飛んできてくれるし(そうでない時も待っていればくる)、スマホが大好きなので構えたらすぐ覗きにくる。
放鳥時におやつ(粟穂)をあげている皿は、出しただけで早くくれとばかりに飛び乗るし、玄関の音、豆苗をだすときの袋の音、いろんなものを認識していて、成長を感じる。

先日、久しぶりにソイを迎えた小鳥店に(餌を買いに)行った。
先日こちらで桜文鳥を…、と説明するとすぐわかってもらえ、気になっていたことをいくつか質問することもできた。
写真も見てもらって、なんだかとても嬉しい。お店の人は私の知らないソイを知っている人なので、なんとなく親戚のような気持ちで接してしまう。
その日、お店には3匹の文鳥がいた。
ソイがいたときはソイを含め5匹がいたのだけど(予約済で今回もそう)、その時に比べて、明らかにそれぞれ性格が違う、と思えて目から鱗だった。特に今回見た2歳の文鳥はかなり自我がはっきりしている感じなのが新鮮だった。

おそらくソイは、比較的おっとりした文鳥なのだと思う。囀りものんびりだし、ケージにいるときは、こちらの動きをじっとみていることが多い。そして目が合うと「かまってくれる時間だ!」とばかりに呼び鳴きを始める。
まあ、まだ一緒に暮らして2か月過ぎたところなので、これから変わることがいろいろあるのだろうけれど、それも楽しみだなと思っている。

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文鳥を飼い出してより一層鳥類への興味が湧いたので、近々動物園に行ってみたい。