おたくという定義について

「おたく:人格=空間=都市」の展示も今日で終了。
先週見に行ってから、いろんな人の感想を読んだりして思ったことをちょっと追記。

前の日記にも書いたけど、この展示を見に行って感じたのは、「おたく」という言葉に対する認識が、人によってあまりにも違い過ぎるということ。もちろんヴェネチア・ビエンナーレ第9回国際建築展の凱旋展示なんだし、建築に焦点があてられた展示なのだから、「おたく」という存在を定義するための展示でないことはわかる。しかしコンセプトとしておたく人格=空間かつおたく人格=都市つまり「おたく=秋葉原で部屋」ととれる展示でもあることから、「おたく:人格=空間=都市」の展示を「おたく」を定義するものだととらえる人はとても多かったんじゃないかと思う。
私は、実際に会場に行ってそれを見て、混沌としていながら、非常にフラットに人工的に作られた展示だと思った。そこにあるものは私にとって見なれたものがほとんどだったし、秋葉原の町の模型はしょぼいな、と思ったくらいでとくにどうということもなかった。しかし、あからさまに嫌悪感をあらわす人が会場にもいたし、今日読んだブログの中でも、見に行くことなく嫌悪している人もいるという話を読んだ。
確かに、あの展示が引き起こすイメージはちょっと(特に恵比寿ガーデンプレイスにいるようなカップル達に対しては)尖ったものだったと思う。でも同時期に開催されていたメディア芸術祭をみればわかるように、世の中にいろんな人がいるのと同じ意味で、あれは1つの側面でしかない。もちろんおたくであるが故に共有するものというのも確かにあると思うけど、「おたく展」と銘打ち、コミッショナーが森川氏であるからこそ、ああいった形を必然として完成した展示なんだとも思う。
その定義については様々な人が言及、考察しているけれど、私には正確なところはよくわからない。ただ私の認識では現在つかわれている「おたく」という言葉はつまり「マニア」と同義語で、何にだってマニアはいるからこそ、あれは完全に一面でしかないよと思う。だから、あの「おたく:人格=空間=都市」の展示は、《おたくへの偏見が閉鎖性を生み、閉鎖しているがゆえに誤解を生む》という悪循環を表現している展示なのかもなと思った。ただ、それであの展示がさらなる偏見を生みだすためのものだったという結末になるのはちょっと残念だ。って、そこまでにはならないと思うけど。
ともかく、私は好きなものをとことん追求する生活が好きだし、好きなものについて話をするのも好きだ。楽しい。けど自分をラベリングすることに意義を感じないし、その方法もわからない。