茂木健一郎×佐藤雅彦トークショー@青山ブックセンター

茂木健一郎さんの著書「ひらめき脳」の刊行記念トークショーだったのですが、実は私、茂木健一郎さんについて何も知りません(クオリアの人だ…というアバウトな知識)。なのでいいのかなぁ、と思いつつ、佐藤雅彦さんの話を直接聞けるチャンスだと思って行ってきました。行って良かった。とっても面白かった。

茂木さんの刊行記念なのにも関わらず、トークショーは茂木さんが佐藤さんにインタビューするような形で進行し、最後まで話題の中心は「佐藤雅彦のひらめき」にありました。
佐藤さんは、そのひらめきのことを「くらくら」と呼んでいて、「くらくら」を経たものでなければ、表現しても伝わらない、ということをおっしゃっていました。「くらくらってどんな感じですか?」という質問には「地震のようなもので、立脚するものがあやうくなる感じ」と答えていたのだけど、これは以前「佐藤雅彦研究室展」を見にいった時に書いてあった「表現を考えるときには表現から入るのではなく、その「概念」から入り、「概念」を根源まで遡って考えていくことが、本質を理解することになり、本質を含んだ表現を生む」ということと同義なんだろう。
いくつかの事例をあげた後に、茂木さんが佐藤さんを評して「クールな脳の使い方」という言葉を使っていたのだけれど(もしかして脳を使う際の温度?のことだったのか…?)、佐藤さんが説明していた「くらくらを待つ」ということは、焦点を絞り込む形で像を結ぶような、「研究室展」での言葉でいうなら「rigid」ということなんじゃないかなと私は思った。そして「言葉が面倒」と佐藤さんが言うのは、文脈で語ること(例えば世間の流行にあわせるということも含んで)が、意味限定につながり、「radical」にたどり着く際の妨げになるからなんじゃないかと思った。
最後の方に、佐藤さんが「多くの人が、世の中との関係性に自分を立脚させているが、いつかそれの意味のなさに気付くと、自分の内側にあるものが大切になる」とおっしゃっていたけど、これがまたグッときた。
例えば、佐藤さんがルービックキューブを手にして感じたひらめき(後から考えればそれは「群論」だったとのこと。うわ、天才だー、と思った。)も、内側に入って、その根源を見ようとしなければ見れないもので、その「入り方」を見つけると、しばしば「くらくら」と出会うことができるのだろうと思う。
そして、佐藤雅彦さんの話を聞いていると、その思考回路はとても数学的で、例えばピタゴラでの「つながりうた」は、口の気持ち良さからきている*1なんて話も、全てのルートを検討してみたうえで、どこかに引っかかりのようなものを見つけるからこそ、それがスイッチになるような、そんなイメージなのかも、とか思いました。

茂木さんは、初等教育の頃には「ひらめき」がたくさんある、とおっしゃってましたが、私にとって今も悔やまれるのは、算数をきちんと理解しなかったこと、というか、数字というものが「数字」という「もの」でなく事象の集合のラベルであるということを全く想像することすらなかったことだったりする。それに小学生の頃に気付けてたなら、たぶん数学て0点とかとらなかった(はずだ…)。そして、佐藤さんの「教育」というのは、話を聞いていると、きっと理解への梯子を作るということなんだなぁと思ったりしました。だから佐藤さんの話を聞いたり表現を見たりすると、たくさん「くらくら」するんだろう。
ちなみに画像は今回のトークショーのポスターだったのだけど、「アハ! 体験」というのが何なのか結局わからなかった…。「ひらめき脳」がどんな本なのかもわからなかったのだけど、それは読んだ上で参加してること前提だったからなのだろうか。

参考

こちら↓にも今日のお話と被るとこがあります。

佐藤雅彦さんと岩井俊雄さんのトークイベントのまとめ
http://www.kinokuniya.co.jp/05f/d_01/essay36/essay09_01_36.html

それから「佐藤雅彦研究室展」に行った時の感想 → http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20050830/p1

*1:ページ一番下に歌詞があります→http://www.nhk.or.jp/youho/pitagora.html