パーソン論から、私が「あってしまっている」ということまで

いつも愛読しているid:kaienさんのところで続いている「something orange:妊娠・中絶は殺人か」という連載を興味深く読んでいます。その1のエントリから、その後いろいろ派生して、なんだかちょっと偏った話題になってしまってるようなのだけど、個人的には「殺人か」と問われれば殺人だという意識を持っていたいけど、だからといってそれが無条件に「悪」であるとは思わない、という意見です。それ以上は今のところ言葉に出来ない。
私が気になっているのは「妊娠・中絶」問題からは少し離れて、パーソン論の部分です。

つまり、生まれたばかりの赤ちゃんは自己意識要件を満たしておらず、パーソンではない。従って、生存の権利を主張することもできないということになります。こうして、胎児殺しはおろか、嬰児殺しまで正当化されることになってしまうのです。パーソン論恐ろしい子
http://d.hatena.ne.jp/./kaien/20060616/p2

kaienさんのところでは、このパーソン論

したがって、あるひとがどのような能力をもっているのかを客観的に測定するということは理論上不可能ということになります。一歩まちがえばパーソン論は、たんに胎児や脳死患者といった「邪魔者」を都合よく始末するためのロジックに堕してしまうでしょう。
http://d.hatena.ne.jp/./kaien/20060617/p1

と批判されています。
パーソン論と、それに対抗する考え方をこちら(http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/ethics/theme4.html)のサイトから引用します。

SOL (Sanctity of Life) 倫理:SOL=生命の尊厳
生命 (特に人の命) は無条件に尊いとし、以下の3原則に従う考え方。

  1. 人為的に人の死を導いてはならない (正当防衛を除き殺人は許されない)。
  2. 第三者が、ある人の命の値うちを問うことはできない。
  3. すべての人命は平等に扱われなければならない (人の命の価値を比較してはならない)。

よって安楽死、中絶は殺人に該当するとし、脳死者の臓器摘出も認めないものとされている。

QOL (Quality of Life) 倫理
QOLには2種類の意味がある。ひとつ (絶対的評価としてのQOL) は「生活の質 (内容)」という意味で、医療現場で患者の生活機能ができるだけ保たれ、人間らしい生活を続けられることを指す。
もうひとつ (相対的評価としてのQOL) は「生命の質」という意味で、人の生命の価値を「人格」という相対的なものとして、評価・比較可能とする。=人格 (パーソン) 論

パーソン論」における人格
人格のあるヒト (カタカナ表記するヒトは動物種としての人間)=ただのヒトでなく「人」/人格のないヒト=ただのヒト

「人格」の要件

  1. 自己意識がある。苦痛を感じることができる。
  2. 欲求や目的を持つ。
  3. 最低限の認識能力 (記憶、期待、信念) を持つ。
  4. 問題解決能力としての理性を持つ。
  5. コミュニケーション能力を持つ。
  6. 本能、強制以外の自分の意思で行為する。
  7. 大脳皮質機能がある (1〜6の要件を生物医学的に表現したもの)。

他、いくつかネット上で読めるものを参照しただけだけど、パーソン論で扱われる「人」と「ヒト」との分け方にはちょっとこじつけめいたところがあり、これを「基準」として使用することには、あやうさを伴うように感じられる。
ただ、前者QOL倫理にしても、確かにそれは理想に近い考えなんだろうなと感じられるけれど、それをそのまま実践すること(他者に強制すること)にはどうしても矛盾や犠牲がつきまとうし、この倫理が法制化に適用されるのは危険だとも思う(自分にとっても)。
誰でも当事者になりうる問題だけに、個人的には当事者以外がその善悪を語ることは難しいと思うのですが、それを言ったら世の中全てが語り得ないものになってしまうし、だからこそ社会としては「善悪」から離れて、使用出来る判断の「基準」を作らなきゃいけないのだろう。そしてそれは画一的なものではなく、実践の例を鑑みて改善されていくものであればいいのになと思うのですが、実際はその基準が善悪になってしまいがちなのでしょう。

ところでこの倫理について考えるとき、人はどの視点により近い場所に立つのだろう? 判定される側か、する側か。
例えば中絶の場合、そこにいる「当事者」の筆頭は胎児であるはずです。しかし、胎児の視点に立つ、ということは難しく、だからこそ「パーソン論」というものが出てきたのだろう、と考える。

胎児の視点

私はかつて、堕胎されるかもしれなかった「ヒト」だったようです(と産まれてから聞いた)。母親が私を妊娠中に風疹にかかったことが原因で、医師から堕胎をすすめられたらしい。

優生学的見地にたつ人工妊娠中絶について
妊婦の風疹:先天性風疹症候群 (白内障、心奇形、難聴を伴う。知能障害も多い) になる可能性があり、風疹流行の年には中絶が数千件増える。実際の胎児の風疹感染率は20%程度。
http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/ethics/theme2b.html

ただ、上記の発症例は、特に妊娠初期の感染によって起きることが多く、私の母の場合は後期だったこともあるのか、実際生まれてみて育ってみた私には、とりあえず危惧された障害はありませんでした。それについては本当にありがたいことだなと思っているし、それと同時に、私を産む覚悟をしてくれた両親にはもちろん感謝している。それでも、実際に私がその立場に立ったとき、確実に両親と同じ道をたどれるかはわかりません。また、似た立場に立っている人に対し何か意見するつもりは全くないです。ペリュシュ判決のような例もあるし、たぶん医学的な進歩によって解決されることが一番良い問題なのだろうと思う。私に言えるのは、予防接種の大切さくらいです。
ただ私は、両親には私を産まない選択もちゃんとあったなと思うし、その場合には責められるような立場にたたされなければいいなとも思う。その点ではパーソン論というのにも有用性はあるのかもしれない。罪悪感の軽減、なんて言ったら不謹慎かもしれないけど(そして、その軽減は日本よりもキリスト教圏に住む人の方が、より切実に求めていることだろうなと思う)。
なんてことぜんぶ、これは私が今あるから考えられることなんですよね。

それでは、私はいつから私だったんでしょうか。

前に「私が私であるということ」(id:ichinics:20060127:p2)という文を書いたときに、「機械の意識の有無を判定する方法について」という質問について考えていたことも、この辺なのだけど、
自分が「意識がない」とされる存在だったとして、「意識あるってば!」と主張しても信じてもらえない存在だったとして(ここら辺もうすでに胎児の話は関係ないです、一応)。
意識の有無を判断する存在は相対する他者なのかもしれない、と思う。もっといえば、人物Aが信じている限り、その他全員が否定したとしても、その対象は存在する?
「私が今あるから考えられる」というのはつまり「我思う故に我あり」です。しかし胎児だった私は、たぶん思ってなかった。我なかった。そのとき、私を存在させていたのは、例えば両親の「我思う」だったんじゃないか。
この回り道でようやく、昨年書いたこれ(id:ichinics:20051009:p3)の続きを考えられるような気がした。そしてその日に引用していたmichiakiさんの文章が、改めて好きだな、と思ったので改めて。

それは、ほんとうは、「ないこともできた」のです。でも、「あってしまっている」。このことこそが、まずなにより驚くべきことであり、きちんと気付くべきことである、とMは考えるのです。「何か」の中に存在するすべてのモノやコトや概念や関係は、人間の歴史や恋や愛や”死んだり死なせたり”や、真偽や善悪や美醜や、普通の人が問題だと思っている全てのこと、幸福も希望も、そういったあらゆるすべては「何かがある」ことの上にしか成り立たないからです。
http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20050930#1128090049

ここから、もうちょっと考えを進めてみたいなと思う。ここまでは整理です。ゆっくり。