「FIGHT SONG」の我々と肯定への抵抗?

相変わらずメタルについてだらだらと考えている。今まで知らなさ過ぎたので、とんちんかんなことをいい続けてるような気もしつつ、今までジャケットだけしか知らなかったレコードたちに性格付けしていくのは楽しいし、それがかっこいいなら聞きたいなーというわけで。
今日は「メタルヘッドバンガーズジャーニー」のなかで少し触れられていた「反キリスト」というモチーフについてちょっと思ったことを。

反キリスト、悪魔崇拝、などのイメージはデスメタルなのかと思っていたのだけど、ちょっと検索してみると、デスメタル自体に特に定義のようなものはなく、デスボイスで歌ってさえいればデス、という表現をあちこちで見る。
キリスト教悪魔崇拝といった傾向を色濃く打ち出しているのはブラックメタルのようだ。ヴェノムが出したアルバム「BLACK METAL」がその始まりとされているが、ジャンルとして注目を集めるようになったのは映画にも登場した、ノルウェーのメイヘム以降の流れらしい。このひとたちは(映画で見ただけですけど)半端なく恐いので調べる勇気ないです。キーワード[ブラックメタル]が詳しい。
ただ、それらのバンドのファンが全て悪魔崇拝主義者なのかといえば、それは違うだろう。ブラックメタルについては、あまりにも実感が湧かないので(聴いたことないし)、もう少し手近なマリリン・マンソンについて。

2001年のサマーソニック千葉マリンスタジアムで見たマリリン・マンソンは衝撃的だった。
照明が落ち、暗い穴のように見えるアリーナ席から響いてくる「FIGHT!FIGHT!」というかけ声。私は友人たちと、「まあ見てみるか」程度の気持ちでスタンド席に座っていたのだけど、見渡せばスタンドにいる人たちも多くが拳を振り上げながら「FIGHT!」と声を合わせていて、まるで何かの集会にきてしまったような居心地の悪さを覚えたし、正直ちょっと恐かった。しかし、いざ曲が始まってみると、フックありまくりで格好良いロックンロールだ。(雰囲気としては、このライブ映像に近い → http://www.youtube.com/watch?v=PXGSCQXjyfM

and I'm not a slave to a god that doesn't exist.
and I'm not a slave to a world that doesn't give a shit.
[Fight song]

「俺は実在しない神の奴隷じゃない」なんて歌詞が、こんな攻撃的でノリの良い曲に乗ってるということ。残念ながら英語ができない私には、彼のアジがさっぱりわからなかったけど、とにかくその音の渦に巻き込まれる感じは気持ちよさそうだった。
その「気持ちいい」は、『メタルヘッドバンガーズジャーニー』からの言葉を借りれば、「我々」になることの気持ち良さとも言えるだろう。
マリリン・マンソンといえば、「Antichrist Superstar」というアルバムタイトルからも反キリスト教主義者とみなされ、バッシングの矢面に立たされることの多いバンドであることでも有名だ。実際に彼/彼等が反キリスト教主義者なのかどうかはわからない。ただ、少年時代の逸話などを見聞きする限りでは、彼がそれを疑い、その疑いが「I wanna grow up/I wanna be a big rock and roll star/[LunchBox]」と歌うまでのモチベーションになったのだろうことは想像に難くない。そして、音の快楽だけでなく、むしろそのような彼の意志にこそ共感するファンが多いだろうことも。

Look at me now/got no religion.
Look at me now/I'm so vacant.
Look at me now/I was a virgin.
Look at me now/grew up to be a whore.
And I want it/I believe it.
I'm a million different things/And not one you know.
Hey, and our mommies are lost now.
Hey, daddy's someone else.
Hey, we love the abuse.
Because it makes us feel like we are needed now.
But I know/I wanna disappear.
[I want to disappear]

メタルヘッド〜」の感想でも引用したインタビュー(リプレイスメンツと比較してた人の)に「メタルファンに顕著なのは「帰属意識」だ」という言葉があった。その流れで考えると、つい「反キリスト教を打ち出したバンドが築こうとしているのは新しい宗教なのか」と思ってしまうのだけど、そこは注意が必要だろう。ブラック・メタルについてはなんともいえないけれど、とりあえずマリリン・マンソンの場合はもう少し個人的なところに足場があるように感じられるし、そこが魅力でもあるのだろう(と私は思うし、例えば上に引用した「I want to disappear」の歌詞の繊細さなんか、ちょっとぐっとくる)。
アメリカでのメタル非難は、「加害少年はマリリンマンソンを聴いていた」なんて報道を例に見ると、いわゆる「ゲーム脳」問題に近いのかもしれないが、「反キリスト教」という部分がクローズアップされるのは、従来の倫理観を脅かすものとしてとらえられているということだろう。宗教を信仰することに馴染みの薄い日本ではちょっと想像しにくいかもしれない。特に最近は「宗教」が批判される際に「集団」を批判する意味合いを伴っていることが多いように感じるんだけど、もしかしたら、だからこそ、日本ではメタルや強烈な主張をもったバンドが浸透しにくいのかもしれない、なんて思う。そして逆に浸透している/するとしたら、それは宗教が生活に根付いていないことによって、歌詞の意味が伝わりにくいからなのかもしれない(大雑把ですが)と思う。そして日本語で出てきたそれはきっと「宗教っぽい」と非難されることだろう。
確かにライブ会場で「Fight!」のかけ声を聴いた瞬間、私は「集会」みたいだと感じ、居心地が悪い、と思った。そしてそれはたぶん、何か禁欲的な自制に基づいていたような気がする。もちろん音楽の受け取り方は自由だし、そこに宗教を連想するのも笑うのも単純に音を楽しむのも嫌悪するのもありだ。
そして今ここで、私が思うのは、「宗教」がひとつの倫理であるならば、「宗教/集団」を肯定することは「個人」を否定することではないのかもしれないということだ。
それは「集団」が先にあるのではなく、想定されている「敵」を共有する/していると思い込むことによって形成される「我々」だろう。「共有」は時に間違いを引き起こすこともある。しかしそれなくしては動かないことがあるのも事実だ。個人というものが、自分にとってより良い世界を求めるものであることと、それは矛盾しないとも思う。

たとえわれわれが自分の見解のすべてが真理であると思うほど狂気じみているとしても、われわれはそのような自分の見解だけしか存在しないことを望んではいない。どうして真理の独裁と全権が望ましいことなのか、私にはわからない。真理は大きな力を持つというだけで、私には十分だ。真理は戦うことができねばならず、敵対者を持たねばならない。そして、われわれは時にまた、真理から逃れて不真理のうちで安らうこともできるのでなければならない。『曙光』五〇七

メタルヘッド〜」を見て、私が一番強く感じたのは「嫌われ、非難されている」ことが確実に求心力のひとつになっているということだ。それがつまり敵の共有ということなのだけれども、そこで目指されていることは、メタル的な価値観が社会に適用されることなのではないだろう。むしろ常に抑圧される側であり続けることで、魅力を保ち続ける、ということができているように見えたのだ。錯覚かもしれない。しかし時にはキリスト教信者が悪魔崇拝をやってみせたりということが許容されているのは、その悪魔崇拝が目指すところが反キリスト教を「実現すること」そのものではないことは明かだろう。
例えば「Fight song」に身を任せることの気持ち良さは、自分の中にある(抑圧される側の)鬱屈した怨恨感情に響くからなのだろうけれど、音に求められているのはその感情の「場」として存在することなのかもしれない。個人の感情を重ねられる場所であり続けるということ。だが、それを力として行使することで、抑圧する側となり、価値を転倒させてしまったら、それはまた別の存在になるだろう、と、ちょっと混乱してきたけど、ともかく、反社会的な面白さというのは、それが社会に適用されてしまったら、その魅力も失われかねない。
じゃあ、例えばこれはどうだろう。

状況が悪くなればなるほど作品は尖ると思うので、アニメは一度死んでしまう方がアニメのために良いんじゃないかなと思います。だから政府のアニメ支援なんて全く余計なお世話っていうか。支援されるより、規制される方がまだマシなんじゃないでしょうか? パンチラ規制の方がまだ良い。パンチラ規制されても、まだ何かやれる。パンツを隠す絶妙なアングルの発明とか。そういう考え方の方が好きですね。
「土曜日の実験室」p124

極論かもしれないけど、一理ある、と思った。そして、その方が面白いんじゃない? って思う自分も、いるんだよなぁ。ルールがなきゃゲームはつまらないけど、ルールがあるからゲームが面白いわけではないというか。複雑なようだけど、たぶん、目指すべきところは、たどり着くところじゃないんだろう。全てが肯定されてしまうことへは、疑いをもたなきゃいけない。