自動的に泣く

わりと涙もろいタイプなので、映画を見たり、音楽を聞いたり、本や漫画を読んで泣く、ということはよくある。泣きたいわけじゃないし、むしろ「泣ける!」という宣伝文句のものにはできるだけ近付かないようにしている。(だからそういうものがほんとうに/私にとっても/泣けるのかはわからない)
つまり私にとっての涙は8割方、自己コントロール外だ。早く走りたくても走れないのと同じ。早く! 急がないと泣くぞ! と思っても捕まれば泣く。
その涙が感情移入によるものであれば、感情移入しないようにつとめるという方法もあるのだろうけれど、それをわざわざ心掛けるのも本末転倒に思えるので、泣くリスクの方を選ぶ。でも、感情移入というのも、別に主人公になった気分になるというわけではない気がする。
涙はほとんど自動的だ。スイッチが入れば涙が出る。「え! あんた関係ないのに!」*1というツッコミがあっても、その関係のなさにすら泣けるような気がする。
とはいえ、日常生活の中で泣く、ということはそんなに多くない。ざっと思い付く限りでも、卵を買ってきて、転んで、全部割ってしまったとき。蟻の巣観察をしようと思って楽しみにしていたはちみつの瓶を、割ってしまったとき、など両方子供の頃だけど、何かが「おじゃん」になったとき、覆水盆にかえらないときに、泣いてたような気がする。
つまり、言葉が追い付かないところに達すると、涙がでるということなのだろうか。感情移入するのも、こればどのような物語なのかということを考えながら見ていた冷静な視点とは別に、言語化できないものが出てくると泣くのに近い気がする。いくら言葉を継いでも取り返しがつかない、手が届かないということが、一つの臨界点なのかもしれない。
たとえば主人公の心情が見ているこちらにはわかっても、主人公がそれを伝えたいだろう相手には伝わっていないということがわかるときに泣ける、というのも、それは私が主人公の気持ちになっているわけではなく、後でそれが伝わってハッピーエンドになったとしても、あの伝わらなさこそが現実であり、現実にいる自分は伝わらないということすらわかっていないという恐ろしさを改めて目の当たりにするからこそ、泣くのかもしれない。
なんてごちゃごちゃ考えてみても結局わからないんだけど、とにかく人間の体って不思議だな。
「笑う」ということの方が、もうちょっと意図的かもしれない。もちろん押さえきれない笑いもあるけれど、そうでない場合は「笑う」ことを自分に許してから笑っているような気がする。
泣くときも、せめてそんなふうに、少しはコントロールできればいいのにな(と思うこともある)。