冷血/トルーマン・カポーティ

冷血

冷血

カポーティは私の一番好きな作家のひとりだ。出会いは「アンファン・テリブル」というスキャンダラスな代名詞でも映画版の「ティファニーで朝食を」でもなく、言葉の隅々にまで神経の行き届いた、美しい短編小説集『夜の樹』だった。
初めて『冷血』を読んだのは、そのすぐ後、カポーティの作品を読みあさっていた(といってもそれほど多くの作品が邦訳刊行されているわけではないけれど)中学生から高校生にかけてのことだ。しかしあの繊細な文章の魅力を求めて手に取った「冷血」は、少々期待外れの作品でもあった。その後に「カメレオンのための音楽」に収録された「手彫りの棺」を読んでからは、その期待の仕方が間違っていたのだと思うようになったのだけど、あれからずいぶん経って、久しぶりに読み返してみた「冷血」は、やはりカポーティの小説らしく、しなやかで、危うい魅力があった。
この印象の違いは、たぶん翻訳によるところが大きいのだと思う。旧訳では文字使いなども古く、読む時に煩わしさを感じることも多かったのだけど、今回のすっきりした読みやすい文体(とフォント)によって磨かれた「冷血」は、作品そのものに集中しやすく、これがミステリーでもサスペンスでもノンフィクションでもなく、小説であるということを思い起こさせてくれた。*1
「冷血」はカンザス州で起きた実際の事件を題材に描かれたノンフィクション・ノベルだ。実際の事件をモチーフに描く、ということはつまり、物語の結末は最初からわかっているということである。しかし何故それがおこったのかということは、現実同様、永遠にわからない。そこがフィクションと違うところだ。ただし、カポーティは入念な取材(三年を費やして6000ページにおよぶ資料を収集し、さらに三年近くをかけてそれを整理したという)によって、事件にまつわる人々の輪郭を描き、想像し、彼がこの事件に対して、何を思ったのかを示している。そしてそれは、殺人者ペリーへのシンパシーにほかならない。
陽の光の中に描かれる家族と、彼らを殺す理由などないのに、ただ殺したのだと語る殺人犯との明暗が印象に残る。そしてその殺人犯もまた、正邪の判別のつきにくい、魅力的な人物なのだった。人間は不思議で、興味深い。そんなことを思う。

*1:新訳の佐々田雅子さんは、読み終えてから調べてみたら、エルロイの「ホワイト・ジャズ」を訳した方だった。