ゲーデルの哲学/高橋昌一郎

ゲーデルの哲学 (講談社現代新書)

ゲーデルの哲学 (講談社現代新書)

この本は、ゲーデルの人生をおいながら、サブタイトルにつけられた「不完全性定理と神の存在論」について書かれた本です。
哲学関係の本を読む時に、私は自分の「歯の立たなさ」を、数学的知識/センスがないせいだと思いたがるフシがあって、それでもなんとなく見える部分だけで満足してしまいそうになる。でもこの本の誠実さは、読み終えた瞬間にそのような自分を反省させる切実さがあり、もう一度、最初から読み返してみた。それでもまだ分からない部分、例えばp215は記号からして読めない、のだけど、それでもこの本はかなり平易に、数学の知識がなくても理解できるように平易な「言葉」で書かれていると思った。

第一不完全性定理
システムSが正常であるとき、Sは不完全である
第二不完全性定理
システムSが正常であるとき、Sは事故の無矛盾性を証明できない。/p59

つまり『「万能システム」が、論理的に不可能であることを証明している/p65』のが、ゲーデル不完全性定理なのだ、というのはとてもわくわくするし、希望だと思う。なんて感覚的なことをかくとおこられてしまいそうだけど、先を見たい気持ちと、その先には手が届かないでほしいというのは嘘をつくところなく、両立してしまう欲求なのだ。

神の存在論

ここで最も面白く感じたのは、アンセルムスについての話だった。

神学史上、アンセルムスが高く評価されたのは、神を「それよりも大なるものが可能でない対象」と明確に定義した点にある。これによって、彼は、キリスト教の神の概念を確立し、「スコラ哲学の父」と呼ばれるようになった。/p206

以前「「神」を信じることは、その実在や宗教を信じることとは違うのかもしれない」というエントリを書いた時に、思ってたイメージと「それよりも大なるものが可能でない対象」というのは近いけれども、「事実において存在しなければならない」という結に達するアンセルムスの展開も、ゆえに「神は存在しない」とするグリムの定理も、どちらにもしっくりこなかった。
ここで「大なるものが可能でない」というのは「考えることができない」という意味であるとp205に解説されているけれども、このような考えの限界を神とするのは私にとってとても自然なイメージに感じられる。けれど、その後につづくゲーデルの存在論的証明の部分は残念ながら読み解けず、もうちょと時間かけて読む。

不完全性定理と理性の限界

ここでテューリングマシンがでてきて、ああやっぱり不完全性定理は希望ににてるとおもった。なにも人間が「機械と同等である」というのを「感情的に」否定したいわけではない。ただ、ゲーデル

思考は、アルゴリズムに還元できない。人間は、テューリング・マシンを上回る存在である。/p252

という仮説の位置にたつことではじめて、万能システムの可能性を考えることも可能になると思うのだ。

ゲーデルの「神の存在論的証明」にしても、その背景には、本人しか理解できない理由があったように思えてならない。/p244

という筆者の言葉こそが、それをあらわしていると思う。それはたぶんある。その見えなさを追い求めたのがゲーデルの哲学なのではないか。私はそんなふうに読みました。