数学と物語

考え事がまとまらない時間が続くのは、眠い目で細かい字を読もうとしたり、ごくごく小さい声を聞き分けようとするのに似ていて、いっそ一足飛びに答えまでたどり着ければいいのに、と思ったりもする。けれど、そうやって落ちてきた答えをそのまま手に取れるかといえばそれもしゃくな気がして、その答えまでの道をもう一回、たどることなしには受け入れられないだろうとも思う。
だいたいが大雑把な性格なのに、一度考え始めると同じ道を何度も確認して、何か手ごたえのような目印を見つけないと、納得できないのはなんでなんだろう、
ということを考えていたら、今読んでいる「1Q84」に、すごく気に入った箇所があった。
物語には、数学の講師で小説を書いている人物が出てくるのだけど、彼が説明する数学とは「意識を集中して目をこらしていれば、向こうから全部明らかにしてくれる」(p89)ものだという。対して小説はというと、

物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。/「1Q84 book1」p318

考え事もきっと、別に答えを探すものではなくて、その過程に「示唆される」何かを見つけるものなんだろう。それは目をこらしていても見えてはこないし、むしろ答えは最初から見えてるような気もしてて、それがなんだか面白いから、なんでその答えになるのかを知りたいだけなのかもしれない。
それなら椅子に座って考えてたってわからないんだし、とりあえず歩いてみれば、って促されたいだけなのかもな、
とか思いながら本を閉じて喫茶店を出る。ほとんど毎日開いてはいるのに、なかなか進まないのは、こんな風に寄り道ばっかりしてるから。