なんか変

「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも 私たちは信じている、言葉のチカラを。 ジャーナリスト宣言朝日新聞
こんなコピーにメッセージを託しました。ペンを握り、言葉を組み合わせ、文をつむぎ出し、真実を伝え続ける。きっと何かが変えられる。そんな思いを込めています。(01/25)

朝日新聞の、キャッチコピー、らしいんだけど、なんだか居心地の悪い文だと思う。
まず、揚げ足取りみたいだけど、ここで「力」を「チカラ」とする意味はなんだろう?
「言葉は感情的で、残酷で」と「無力だ」の間に「ときに」と入れるということは、言葉は常に(とりあえず「ときに」ではなく)「感情的で、残酷」であるというニュアンスを含む(誤解を招く)んじゃないだろうか?
コピーの趣旨は、たぶん「言葉はときに、感情的であったり、残酷であったり、無力であったりする」ということに近いんだろうなというのはわかる。でも、「感情的」や「残酷」は「無力」というよりは「暴力」に近いイメージを、私は持っている。たとえ私のその感覚が極端だとしても、「感情的であり残酷であること」がイコール無力であるとは思えないし、それはたぶんこのコピーの趣旨には含まれていないだろう。
しかし、その後に「それでも、私たちは信じている、言葉のチカラを」と繋げるのであれば、それは「無力」に掛かっているんだろう。「感情的で残酷」であることを「信じている」ってのは、趣旨を推し量るとおかしい気がするし。そうなってくると、やはり「感情的で、残酷で」と「無力だ」の間の「ときに」は両者を分つものだと感じられる。
すると、「感情的で残酷であること」に対抗する「言葉のチカラ」というニュアンスである可能性が高いけど、言葉が「感情的で残酷である」としている上で、「信じている」と言われても、なんかそれって既に信じてないのでは、と感じてしまう。で、以上のことを総合して考えると、この文の趣旨は以下のようなことだと思う。
「感情的な言葉は、時に残酷で、その残酷さに、無力さを感じてしまう事もあるけれど、それでも私は信じたい。言葉の力を。(きっとあなたに何か伝えられると思うから!)」
うーん、でもこれだと、言葉が残酷であるのは「感情的」な時だけみたいになるな。というか、そもそも新聞社が「感情的」であってはいけないんじゃないかって気がするんだけど…。そういう自戒なのかな? だとすると、「感情的な言葉や、残酷な言葉に触れて、信じられないと思う事があるかもしれないけれど、私たちは常に冷静な視点を保ち、適切な言葉を選んで、あなたの感じている無力さを払拭できるような、力のある言葉を追い求めて行く事を誓います」なんていう趣旨なのかな。なんかだんだん混乱してきた。
でも、ここではあまり良い意味合いでは使われていないと思われる「感情的」ということばだって「情感溢れる」とかけば、なんだか美徳のように聞こえる。
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それから、私たちって、自分たちのことなんだろうけど、言葉を発信する側が「信じている」と自己完結してていいんだろうか?「信じて欲しい/信じてもらえるよう努力したい」ではないのが、なんとも歯がゆい。
さらに、「ペンを握り、言葉を組み合わせ、文をつむぎ出し」という言葉から、私が連想するのは、フィクションだ。「真実を伝え続ける」という意志を伝えたいのであれば、言葉で表現する方法を模索するよりも、取材して、考えて、ということが重要なんじゃないだろうか? もちろん、誤解を招かないように言葉を選ぶことも大事だけど。
そして「きっと何かが変えられる」って、どういう意味なんだろう。変えなければならない「何か」があるとして、それを「変える」のが「自分たち」だという自負だとしたら、それが「何」なのか、全ての人が共通認識として持っていると考えているんだろうか?
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日本語って難しい。